ここで何が起きているのでしょうか
神は、正義と無垢と善に満ちたご自身の王国を地上に建てるために、イスラエルを選ばれました。そして、イスラエルがご自身に忠実であり続ける限り、イスラエルの神殿に住み、地上でご自身の良いご計画が成し遂げられるようにすると約束されました。しかしエゼキエルが最初に見た幻の中で、神は誰もが当然おられると思っていたエルサレムの神殿ではなく、バビロンにおられました(エゼキエル書 1:3)。そして今、新しい幻の中で、神はなぜ去られたのかを説明されます。エルサレムのご自身の住まいが悪と偶像礼拝で満ちているため、神はそこを去られたのです。再び民の中に住まわれる前に、まずそこを清めなければなりません。
この第二の幻の中で、エゼキエルはエルサレムの神殿の内部で何が起きているのかを、預言者としての目で見せられます。最初に目にしたのは、神の神殿の北の門の前に立つ異国の偶像でした(エゼキエル書 8:1〜6)。神が民に与えられた第一の命令は、偶像を造ってはならないということでした。ところが今、神の家のすぐ外に、イスラエルが神を拒んだことを示す彫像が記念碑のように立っているのです(出エジプト記 20:3〜4)。しかし神は、ご自身の家の内部にさらに恐ろしいものが隠されていることをエゼキエルに示されます。壁の向こうでは、イスラエルの指導者七十人が、虫や蛇の像に向かってひそかに祈っていました(エゼキエル書 8:9〜11)。さらに奥へ進むと、イスラエルの娘たちが豊穣の神タンムズを賛美している姿が見えます(エゼキエル書 8:14〜15)。そしてついに、神殿の最も中心の場所には、イスラエルの指導者二十五人がいて、太陽を造られた方ではなく、昇る太陽を賛美していたのです(エゼキエル書 8:16)。さらに神は、エルサレムが偶像礼拝に染まっているだけでなく、その指導者たちが殺人と、自分たちに都合のよい不正な法を作ることによって権力を維持していることも明らかにされます(エゼキエル書 8:17、9:9、11:1〜3)。これほどの悪と汚れは、善であり清い神のご臨在を宿すのにふさわしくありません。そこで神は神殿を去り、滅びを通してそこを清められるのです(エゼキエル書 8:17)。
幻の中で、神は六人の戦士と、インク入れを持った一人の祭司を呼び、神殿の前に立たせます(エゼキエル書 9:1〜2)。神は祭司に、増し加わるイスラエルの偶像礼拝と堕落に公然と抗う者たちの額に印をつけるよう命じられます(エゼキエル書 9:3〜4)。戦士たちは祭司の印を受けた者に手を出すことができませんが、それ以外の者はすべて殺されることになります(エゼキエル書 9:5〜7)。彼らの悪が引き起こした汚染は、止められなければならないのです。しかしエゼキエルは、神の刑罰を執行する者たちを見つめながら、この清めから誰か免れる者はいるのかと問いかけます。神の答えはただ一つ、イスラエルの偶像礼拝と殺人と腐敗はあまりにひどく、これに終わりを告げないことこそ不正である、というものでした(エゼキエル書 9:8〜10)。それから神は祭司を呼び、ご自身の御座の下から炭火を取り、都を焼き尽くすように命じられます(エゼキエル書 10:1〜2)。祭司がそうしている間に、神の御座は神殿の中心の上にあった位置からゆっくりと動き、外壁の方へと移っていきます。神は、神殿とそれを腐敗させた指導者たちを攻め囲むために、ご自身の神殿を去っていかれるのです(エゼキエル書 10:3〜22)。
続いてエゼキエルは、幻の中で自ら行動する者となり、昇る太陽を賛美する指導者たちを断罪します。語りかけると、その筆頭の指導者が倒れて死んでしまいます。恐れおののいたエゼキエルは、神の清めから誰か免れる者はいるのかと再び尋ねます(エゼキエル書 11:13)。しかし今度は、神は「いる」と答えられます。神は祭司の印を受けた者たちを集め、彼らの地へ帰らせてくださるのです(エゼキエル書 11:14〜17)。そしてその時、神はご自身の霊によって民の心を造り変え、生きている限り神を愛し、その律法を守る者としてくださいます(エゼキエル書 11:18〜20)。幻の終わりに残されたのは、悪と偶像礼拝のゆえに廃墟となった神殿と、エルサレムを離れてはるか東の山々にとどまる神の宇宙的な御座の姿でした(エゼキエル書 11:21〜25)。
福音はどこにあるのでしょうか
神によるエルサレムの滅びの中に、小さな希望の光がかすかに輝いています。滅びを通して、神は少数の民を清め、まったく新しく造り変えると約束されるのです。この人々はもはや神に対して心を固くする者ではなく、神の霊によって心を柔らかくされ、神に聞き、心のすべてをもって神を愛する者となります(エゼキエル書 11:18〜20)。エゼキエルは、この新しい心はエルサレムの神殿が滅ぼされた直後に与えられると思っていたかもしれません。しかし、そうはなりませんでした。エゼキエルが預言した柔らかな心は、イエスという新しい預言者がイスラエルに来られ、もう一度神殿の滅びを告げるまで、神の民に与えられることはなかったのです。
幻の中のエゼキエルと同じように、イエスもエルサレムの神殿に立ち、そこに見いだした偶像礼拝を断罪し、指導者たちの不正を告発されました(マタイの福音書 21:12〜13、マルコの福音書 12:38〜40、ルカの福音書 19:45〜48)。エゼキエルと同じように、イエスも神殿が滅ぼされることを預言されました(マルコの福音書 13:1〜2、ルカの福音書 21:5〜6)。そして腐敗した宗教体制に向けられたこれらの預言のゆえに、イエスは殺されたのです。しかしイエスが死なれたとき、神の御座を隠していた垂れ幕が真っ二つに裂けました。それは、神が腐敗した神殿をついに後にされたことを示すしるしでした(マタイの福音書 27:51)。イエスの死において、神は神殿を去り、それを滅ぼす備えをしておられることを示されたのです。それからわずか四十年後、神殿はローマによって滅ぼされ、二度と建て直されることはありませんでした。
しかしイエスは、神の清めを預言するためだけに来られたのではありません。ご自身の民を清めることによって造り変えるために来られたのです(ヨハネの福音書 3:17)。イスラエルの滅びが神の民を清めたのと同じように、イエスが滅ぼされたとき、その死が私たちを汚れから清めてくださいました(ヨハネの手紙Ⅰ 2:2)。それだけではありません。イエスはその滅びから復活されました。そして神の宇宙的な御座の間に入り、インク入れを持った祭司のように、ご自身の民に御霊による印を押し、証印を与え始められたのです(エペソ人への手紙 1:13)。エゼキエルが望んだとおり、イエスの預言を信じる者はみな、その犠牲によって清められ、まったく新しく造り変えられます。自分の内側をのぞき込んで、醜く腐敗した「神殿」を見てしまうことがあるかもしれません。もし神がそれをご覧になったら、イスラエルの神殿を滅ぼされたように自分も滅ぼされてしまうのではないか、と恐れることもあるでしょう。けれどもイエスは、あなたを清めるために死んでくださいました。その死と復活を信じるなら、イエスはご自分のものとしての印を押してくださいます。そして救ってくださいます。印を押すために命を捨てられたその民を、神が造り変えるのを妨げるものは、何一つないのです。
ご自身の目で見てみましょう
聖霊が目を開いてくださり、心を柔らかくしてくださる神を見ることができるよう祈っています。そして、私たちを清め、造り変えるために滅ぼされた方として、イエスを仰ぐことができますように。

