何が起こっているのでしょうか
詩篇 106篇は、神の民がバビロンで追放の身にあった時期に書かれました。何世紀にもわたる反逆と偶像礼拝への罰として、神は彼らを追放されたのです。しかし、追放の地にいたこの詩篇の作者は、悪の道から立ち返るよう民に呼びかけ、その悪に見合う報いを受けるべき不従順な民を、それでも救ってくださいと神に願い求めます(詩篇 106:1〜4)。最も重い罰の只中にあってなお、神が愛をもって、ふさわしくない民に向かって歩み寄り、もう一度回復してくださることを彼は望んでいるのです(詩篇 106:5〜6)。
それから詩人は、イスラエルが反逆したにもかかわらず、神が恵みと慈悲をもって応えてくださった数々の出来事を並べ始めます。エジプトの奴隷状態から導き出された直後、ファラオの軍勢に追い詰められて紅海を背にしたとき、神の民は反乱を起こしかけました。それでも彼らの反逆的な態度にかかわらず、神の愛は海の中に道を開き、彼らを救い出したのです(詩篇 106:7〜12)。その後、荒野で食物を求めて怒りのうちに不満をもらしたときも、神は食べ物と水を与えてくださいました(詩篇 106:14〜15)。神の立てた指導者に逆らい、賛美するための偶像を造ったときも、神は公正な怒りによって民をことごとく滅ぼし尽くすことはなさいませんでした(詩篇 106:17〜23)。イスラエルが約束の地の境まで来たとき、彼らは反逆して入ることを拒み、自分たちを死なせるために導いたのだと神を責めさえしました。しかし神は慈悲深く、愛すると約束された民を滅ぼされませんでした。反逆のゆえに死んだ者もいましたが、神はその子どもたちを守り、四十年間彼らを養い、ついにもう一度故郷の境にたどり着かせてくださったのです(詩篇 106:24〜27)。しかしその間にも、イスラエルは偶像を賛美し、偶像を拝む妻を迎えて、神の愛を試しました(詩篇 106:28〜29)。それでもこの時も再び、神は反逆する共同体全体が滅ぼされずにすむ道を備えてくださいました(詩篇 106:30〜31)。何度も何度も神の民は反逆し、何度も何度も神は愛し続け、救い続けてくださったのです。
続いて詩人は、故郷の地に移り住んだ後も、民の反逆の繰り返しが止まらなかったことを思い起こします。以前と同じように、彼らは反逆しました。自分たちの子どもを偽の神々にささげる犠牲とまでしたのです(詩篇 106:36〜39)。その時になってついに神はその反逆を罰し、敵が彼らの国を捕らえて追放するのを許されました(詩篇 106:40〜42)。しかし追放の身にあるこの詩人は、囚われの中にあってさえ、神の愛が動かされうると信じています。神は過去において、いつでも民の叫びを聞いてくださり、その叫びは必ず神を動かして救いへと向かわせました(詩篇 106:43〜46)。ですから彼は、神がご自身の性質に誠実であられ、過去と同じように行動してくださるよう祈るのです。自分たちの行いにもかかわらず、そして神の愛が尽きることがないゆえに、自分たちを愛し、追放の地から救い出してくださいと願い求めます(詩篇 106:47〜48)。
福音はどこにあるのでしょうか
神の民は、その反逆に対する神の罰として、故郷から引き離されました。しかし詩人は、神の愛が民の反逆よりも大きいと信じていました。だからこそ、その大きな愛によって反逆の結果から救い出してくださいと神に願ったのです。神はやがて、ご自身の子イエスを遣わすことによって、神の罰からの救いと真の故郷への帰還を求めるこの祈りに答えてくださいました。愛のゆえに、イエスは神の民をその反逆の結果から救うために来られたのです。
イエスは、ご自身の民を反逆の繰り返しから救い出すために来られました(ルカの福音書 19:10)。不従順なイスラエルとは違い、イエスは全存在をもって神を愛されました。どんな時にも神に従い通されたのです(ヨハネの手紙Ⅰ 3:5)。そしてイエスは、人々が犯した反逆の代価としてご自身の血を献げることによって、反逆する者に対する神の愛がどれほど揺るがないものかを示されました(ペテロの手紙Ⅰ 1:18〜19)。イスラエルがバビロンで象徴的に「死んだ」ように、イエスはローマの十字架の上で死なれました。民の反逆が招くべき当然の結果として、墓へと追放されたのです。神ご自身が、私たちの反逆の結果を支払ってくださいました。そして三日後、死者の中でのイエスの追放は終わりました。イエスは墓からよみがえり、詩人が祈り求めたことに答え、それを成し遂げられたのです。イエスを信頼するとき、イエスは私たちを反逆の結果から救ってくださいます(ヨハネの福音書 3:17)。家族の歴史がどれほど壊れていても、悪の連鎖がどれほど根深くても、イエスの愛はそれよりも力強く、それよりも揺るぎません。神とともに生きる歩みから追放されたように感じることがあっても、イエスが救い出し、家へと連れ帰ってくださることを覚えておきましょう。その愛は、人が生み出しうるどんな悪よりも、粘り強いのです。
自分の目で確かめてみましょう
人の反逆をどこまでも越えて続く愛をお持ちの神を見る目が、聖霊によって開かれますようにと祈ります。そして、私たちの反逆の繰り返しを終わらせ、家へと導いてくださる方として、イエスを見ることができますように。

