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詩篇 54篇

あなたの名によって私を救ってください

詩篇54篇には、決して私たちを見捨てることのない名、イエスが示されています。変わることのないそのご性質は、信頼する者を裏切ることがなく、その善さは、どんな悪も罰せられずに終わることはないという保証なのです。

何が起こっているのでしょうか

サウル王は、自分に代わる王として選ばれたばかりのダビデを追い回しています。イスラエルの次の王となるべき人は、ユダヤの荒野へ逃げ込みました。そして今、同胞であるジフ人までが、サウルのために捕らえようと申し出て、ダビデを裏切ります。本来ならダビデをかくまうべき人々が、誠実どころか、まるで頼りにならない者であることを自ら明らかにしたのです(サムエル記Ⅰ 23:19〜28)。

敵に迫害され、味方であるはずの人々に裏切られたダビデは、残された唯一の隠れ家である神の名のもとへ走ります(詩篇 54:1〜2)。神の名に信頼することは、変わることのない神のご性質に信頼することだと、ダビデは知っていました。友が敵のようにふるまい始めても、神はいつでも神らしくふるまってくださるのです(詩篇 54:3)。イスラエルの歴史を通して、神はご自分の民と共にいると約束してこられ、これまで一度もその約束を破られたことはありません(民数記 6:27、申命記 12:5、歴代誌Ⅱ 6:6)。ですからダビデは、人の頼りなさよりも神の誠実さに信頼し続け、間もなく神がサウルとジフ人の手から救い出してくださると希望を抱くのです(詩篇 54:4)。

神が誠実であるということは、ダビデが自分の手で復讐する必要はないということでもあります。それは神の善き御名がしてくださることだからです(詩篇 54:5)。神の善さと誠実さが、悪を野放しにしておくことはない——ダビデはそう確信しています。神の名がご自分の民を見捨てることは決してありません。ダビデは、悪からの最終的な救いを待ち望み、その日に神の名が正しいと証しされ、悪が完全に滅ぼされることを祝うのです(詩篇 54:6〜7)。 

福音はどこにあるのでしょうか

敵と、頼りにならない味方に囲まれたこの世界で、私たちには「救ってくださる」と信頼できる名が必要です。そして神は、その御名を私たちに与えてくださいました。神の名、それはイエスです。イエスは、ご自分の民に対する神の誠実さが、からだをとって目に見え、触れられるものとなった方です(ヨハネの福音書 1:14, 18)。イエスは、決して私たちを見捨てることのないただ一つの名であると約束してくださいます。 

イエスがご自分の民の間を歩まれたとき、その歩みはダビデとよく似ていました。身内の者が自分に背を向けるとはどういうことかを、イエスは知っておられたのです(ヨハネの福音書 1:10〜11, 7:4〜5, 13:18)。弟子の一人が裏切り、殺意を抱く敵の手にイエスを引き渡しました(ルカの福音書 22:47〜48)。それでもイエスは神に信頼し、自分の手で復讐しようとはされませんでした。神はご自分の名に対して誠実であり続ける、と知っておられたからです。そして神は、ダビデを救い出されたのと同じように、イエスを死者の中からよみがえらせてくださいました。

今、イエスは、その名が昨日も今日もいつまでも変わらないと信頼するすべての人に、救いを差し出しておられます(ヘブル人への手紙 13:8)。その御名の善さゆえに、悪が罰せられずに終わることはありません。イエスが再び来られるとき、神の善く誠実な御名は、人間の悪と頼りなさに打ち勝ちます(ヨハネの黙示録 19:11, 15)。この人生で信頼を置く人々は、名を変え、立場を変えていくでしょう。けれどもイエスは誠実であり続けます。ご自分が何者であるかを変えることはできないからです(テモテへの手紙Ⅱ 2:13)。イエスは永遠に「誠実また真実なる方」であり、忠実さが移ろいやすいこの世界における確かな隠れ家です。 

自分の目で確かめてみましょう

聖霊が目を開いてくださり、御名を隠れ家として与えてくださる神を見ることができますようにと祈ります。そして、いつも誠実であり、最後には悪に勝利される神の名として、イエスを仰ぐことができますように。

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