何が起こっているのでしょうか
神は預言者エレミヤに、エルサレムの神殿の真ん中に立ち、この都の宗教体制の偽善を指摘するメッセージを語るよう命じられます(エレミヤ書 7:1〜2)。彼らは神の代理を務めながら、外国人を虐げ、弱い者を利用し、異教の神々の祭壇で自分の子どもたちを殺していました(エレミヤ書 7:5〜9、30〜31)。さらに悪いことに、神殿の営みが続いていること自体が、神が自分たちの指導を認めておられる証拠だと思い込んでいたのです(エレミヤ書 7:4、10)。しかしエレミヤは、彼らが神の家を搾取のための宗教的な看板に変えてしまったと語ります。それはもはや「強盗の巣」にすぎず、神はさばきと追放を通して、彼らの都と神殿を打ち壊そうとしておられます(エレミヤ書 7:11〜20)。
神が民をエジプトから導き出されたその日から、彼らは頑固に神を拒み続けてきました。幾世代にもわたる神の忍耐にもかかわらず、ユダは契約を破り、立ち返ることを拒みました(エレミヤ書 7:23〜26)。エレミヤは、神がこの腐敗した世代を、自らの暴虐と偶像礼拝の結果に引き渡されると告げます。流された血の罪と不正がこの地から明らかにされ、取り除かれる中で、神殿も都も倒れることが許されるのです(エレミヤ書 7:27〜29、7:33〜8:3)。
次に神はエレミヤに、自分の国の状態を人々の前で嘆き悲しむよう告げられます。エレミヤは、かつて自分を救い出してくださった神に背を向けたユダの姿を嘆きます(エレミヤ書 8:4〜7)。神への不従順と不忠実に契約上の結果など何もないとユダの指導者たちが言い張るからこそ、その心は嘆きに沈むのです(エレミヤ書 8:8〜12)。涙のうちにエレミヤは、追放が迫っており、自らの不誠実が引き起こした災いからユダは逃れられないと告げます(エレミヤ書 8:13〜17)。
けれども、こう語りながらもエレミヤ自身がそれに耐えられません。自分の民が滅ぼされることを思うと、胸が張り裂けるような苦しみに沈みます(エレミヤ書 8:18)。どうか自分の祈りを聞き、迫り来るものを止めてくださいと神に願います(エレミヤ書 8:19〜20)。しかし語り進めるうちに気づきます。契約への反逆を続けている限り、ユダの傷は癒されないのだと。残されているのは気まぐれな罰ではなく、いつの日か新しくされる可能性が開かれるために、さばきを通してこの地を清めるという痛みを伴う働きなのです(エレミヤ書 8:21〜9:11)。神の民は完全に神を退け、自分たちの心のままに——子どもたちを犠牲にするほどまでに——盲目的に歩んできました。それゆえエレミヤは、ユダとその神殿は倒れ、追放されるほかないと知るのです(エレミヤ書 9:12〜16)。
エレミヤは、今なお残されている誠実な応答は、失われたものを泣き、嘆くことだけだと言います(エレミヤ書 9:17〜22)。ユダには選択が与えられていました。命のない偶像か、それとも愛と正義と義によって特徴づけられた契約を結ばれる生ける神か。彼らは死と朽ちる道を選んだのです(エレミヤ書 9:23〜26)。生きて語り、創造される神ではなく、造られた、沈黙した、無力なものに向かって、ユダは心を固くしました(エレミヤ書 10:1〜16)。そこで神はさばきが臨むことを許されます。民を滅ぼし尽くすためではなく、訓練し、低くし、精錬するためです(エレミヤ書 10:17〜18)。エレミヤはメッセージを閉じるにあたり、ユダは自らを癒すことができないと認め、どうか彼らを滅ぼし尽くさず、来るべき回復のために残りの者を残してくださいと願います(エレミヤ書 10:19〜25)。
福音はどこにあるのでしょうか
エルサレムも、その神殿の指導者たちも、民の頑なな心を変えることはできませんでした。契約への誠実を守るどころか、彼らは偶像と不正を持ち込み、国を内側から腐らせてしまったのです。ユダが回復されるためには、この腐敗を支えている仕組みそのものが取り壊されなければならない——そうしてはじめて、神はいつの日か民を新しく建て直すことができる。エレミヤはそう理解していました。
イエスは、神の誠実な預言者、また神の代理者として、この同じ物語の中に入って来られます。エレミヤと同じように、イエスもエルサレムの神殿に立ち、その偽善に立ち向かい、やがて来る滅びを告げられました。エレミヤ書を引用しながら、イエスは当時の宗教制度を「強盗の巣」と呼ばれます。それはもはや神の正義と慈悲を映していなかったからです(マタイの福音書 21:13)。そしてエレミヤと同じように、イエスは、異国の軍勢の侵略と追放によってやがてエルサレムに臨む荒廃を思って涙を流されます(ルカの福音書 19:41〜44)。
しかしイエスは、さばきを告げるだけではありません。イスラエルがついになり得なかった「誠実な者」として、イエスはイスラエルの物語の中に踏み込まれます。神殿が壊され、三日で建て直されると語られたとき、イエスは、神のご臨在がもはや腐敗した制度に結びつけられるのではなく、ご自身の誠実で従順な生涯に結びつけられることを宣言しておられたのです(ヨハネの福音書 2:19〜21)。イエスこそまことの神殿——神がその民の間に、余すところなく誠実に住まわれる場所となられました。
イエスの死において、反逆と追放とさばきというイスラエルの長い歴史は、その頂点に達します。イエスは契約への不誠実の結果を死そのものへと担って行き、民に代わって追放に入られました。そしてその復活において、神はまったく新しいことを始められます。イエスは新しくされた民の初穂としてよみがえり、石ではなく回復された人のいのちで造られる、生ける神殿を形づくられるのです。今やイエスは御霊によって、神の契約を人の心に書き記し、偶像を生きた誠実さに置き換え、さばきによって奪われたものを回復してくださいます(エレミヤ書 31:31〜34、ヨハネの福音書 16:13)。
イエスに信頼するとき、私たちが築いてきた偽りの神殿——私たちをゆがめる仕組み、アイデンティティ、忠誠の対象——は取り壊されます。そしてその代わりに、イエスは忍耐深く私たちを建て直し、愛と正義と義によって特徴づけられる民としてくださるのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
悪に立ち向かうことに誠実で、その民を回復することに心を注いでおられる神を見る目を、聖霊が開いてくださるようお祈りしています。
そして、その民をさばきの中を通り抜けさせ、新しくされた歩みへと導いてくださる誠実な代理者として、イエスを見ることができますように。


