何が起こっているのでしょうか?
この十年間、エゼキエルはイスラエルに向かって、神を拒み悔い改めようとしないなら故郷が滅びることになると警告し続けてきました。そしてこの十二か月間、エルサレムはバビロンの攻撃を受け続けています。エルサレム陥落についてのエゼキエルの預言が、今まさに実現しようとしているのです。ところがこの絶望的な時に、神はエゼキエルを、滅びではなく希望を告げる預言者として、あらためて召し出されます。
十年前、バビロンにあるイスラエル人の難民の宿営に座っていたエゼキエルを、神は町の城壁に立つ見張り人のような者として召されました。遠くを見渡し、迫り来る神のさばきの脅威を告げ知らせる役目です。バビロン王国は目前に迫っており、神の民はエゼキエルの警告に耳を傾けて悔い改めるはずでした(エゼキエル書 3:16〜27)。それ以来、エゼキエルは誠実な見張り人であり続けましたが、イスラエルの人々はその警告に耳を貸しませんでした。その結果、国はバビロンの侵攻に屈しようとしています。追放の地にいる神の民は、家族も故郷も滅ぼされようとしている今、どうすれば生き続けられるのかと神に問います(エゼキエル書 33:10)。それに対して神は、だれの死をも喜ばないと言われます。神が喜ばれるのは、いのちを与えることなのです。そして、死に向かうイスラエルであっても、悔い改めて神に立ち返るなら、神はいのちを与えてくださいます(エゼキエル書 33:11)。神があらためて立てられた見張り人エゼキエルの言葉に聞き従うだけで、神は民を赦し、バビロンの侵攻を阻んでくださるのです(エゼキエル書 33:11〜16)。ところが追放の地の神の民は、エゼキエルが本当に神の預言者として語っているとは信じず、その言葉は気まぐれで筋が通らないと言い張ります。あるときはさばきを告げ、次の瞬間には赦しを約束する、というわけです。しかしエゼキエルは、どうか警告を受け入れてほしいと訴えながら、こう語ります。神はいつでも変わることなく赦そうとしてこられました。問題は、イスラエルが変わることなく悔い改めようとしないことなのです、と(エゼキエル書 33:17〜20)。
やがて、エゼキエルが初めから神の預言者であり見張り人であったことを証明するかのように、包囲されたエルサレムから逃れて来た者がバビロンに到着し、イスラエルの都エルサレムが陥落したと告げます(エゼキエル書 33:21〜22)。エゼキエルが預言したとおり、神はついにエルサレムをさばかれました。しかし悲しいことに、生き残った者たちはなお悔い改めようとしません(エゼキエル書 33:23〜26)。そこで神は、その正義においてどこまでも一貫した方であり続け、彼らの故郷がさらに荒廃していくのを許されます(エゼキエル書 33:27〜29)。これらすべてによって、追放の地にいるイスラエル人には、エゼキエルがずっと神の預言者であったことがはっきりするはずです。その預言を勝手な作り話や詩にすぎないと退けてきたのは、間違いだったのです。けれども、これは同時に良い知らせでもあります。イスラエルの滅びについてエゼキエルが正しかったのなら、彼らが悔い改めて神の見張り人に耳を傾けるなら神は赦し、イスラエルに新しいいのちをもたらすという言葉も、やはり正しいということになるからです(エゼキエル書 33:30〜33)。
福音はどこにあるのでしょうか?
悪を行い、偶像を拝むイスラエルに語られたエゼキエルの希望のメッセージは、神は悪者に正義のさばきを下すことを喜ばれない、というものでした(エゼキエル書 33:11)。神が喜ばれるのは、いのちを与え、いのちを授けることなのです。神は、頑なで悔い改めのない罪を、国を滅ぼすことによって罰されましたが、それでもだれ一人死ぬことを望んではおられません。彼らが悔い改めようとするなら、神は赦し、その王国を回復してくださるのです。だからこそ神は、もう一人の見張り人、預言者を民に遣わされました。その名はイエスです。エゼキエルと同じように、イエスもイスラエルに、神の国が近づいたのだから悔い改めなさいと告げられました。先祖たちが拒んだ、赦しと回復の神の国が、今また彼らに差し出されたのです(マルコの福音書 1:15)。
神の国が告げ知らされたその時から、イエスの働きを最終的に特徴づけたのは、断罪やさばきではなく、赦しと救いでした(ヨハネの福音書 3:17)。社会で最悪とみなされていた人々——売春婦や裏切り者たち——さえ、イエスの働きの中に、罪の贖いへの唯一の希望を見いだしたのです(ルカの福音書 5:27〜31)。しかしエゼキエルのメッセージと同じように、イエスのメッセージも多くの人に拒まれました。悔い改めることを拒んだ人々は、ついにイエスを十字架につけました。それでも、イエスが死に向かわれるそのとき、隣で死にゆく一人の男が、最後の息で赦しを願い求めました。イエスはその男に、死を目前にした悔い改めによって、あなたのような者でも神の国に入り、永遠に生きるのだと告げられました(ルカの福音書 23:42〜43)。誠実な見張り人のように、イエスは、死と滅びの脅威のもとにある人々に、悔い改めが神の国でのいのちと安全につながることを告げるために死んでくださったのです。滅びについてのエゼキエルの預言は、イスラエルの滅亡によってその正しさが証明されました。そして、赦しと永遠のいのちについてのイエスの預言は、神がイエスを死者の中からよみがえらせたときに、その正しさが証明されたのです。エゼキエルが語ったとおり、神は死を喜ばれません。すべての人が神の赦しと永遠のいのちを味わうことを願っておられます。イエスにおいて、赦しに満ちた神の国が到来しました。ですから、イエスに立ち返りましょう。呼び求める者を、イエスはいつでも赦してくださるからです。
自分の目で確かめてみましょう
聖霊が、死を喜ばれることのない神へと目を開いてくださるよう祈ります。そして、私たちに永遠のいのちをもたらすために死者の中からよみがえられた方として、イエスを仰ぎ見ることができますように。

