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エゼキエル書 40:1〜43:12

理想の神殿

エゼキエル書 40:1〜43:12では、神殿を建てるのはイスラエルではなく神であることが示されます。神は、まことのイスラエル人であるイエスとしてこの地に来られたとき、まことの神殿を建てられたのです。

何が起こっているのでしょうか?

エゼキエル書は、神がご自身の預言者に、神殿の恐ろしい光景を見せる場面から始まります。本来は自由と赦しと安息の場であるべきところが、束縛と罪の重荷と疲れの巣窟となっていたのです(エゼキエル書 8〜11章)。神は公正な怒りをもって、ご自身の神殿を去り、バビロンがそれを破壊するのを許すと言われました。しかし今、この書の最後の数章で、神はエゼキエルに新しい神殿の幻を見せてくださいます。そこでは、自由と赦しと安息が神の民に永遠に回復されるのです。神はこの新しい神殿のほとんどすべての部屋と器具の寸法を、実に細やかに描き出されます。そしてその寸法は、神の民が過去の腐敗から立ち返り、神が与えようとしておられる自由と赦しと安息にかたどられた生き方をするよう促すためのものだと説明されます(エゼキエル書 43:10〜11)。神はエゼキエルに、この神殿の寸法は神の民が「守るべき」「定め」であるとはっきり告げておられます。神がエゼキエルに与えた寸法は、建物のための設計図ではありません。それは、すべてのイスラエル人が身をもって生きるべき理想なのです。

記されている数字は、ほとんどすべてが象徴的な力を帯びています。イスラエルでは、49と50という数字が重要でした。50年ごとに「ヨベル」と呼ばれる祝いが行われ、奴隷は解放され、負債は免除され、先祖の土地は返還されることになっていました(レビ記 25:8〜55)。注意深く読むと、エゼキエルの預言に記された年代が、足し合わせると49か50になることに気づくのではないでしょうか(エゼキエル書 1:1〜2、40:1)。また、犠牲によって赦しが確保される神殿の場所へと上る段は、ちょうど25段、下る段も25段あります(エゼキエル書 40:6、22、31、49)。これらの預言の年代が意図的に選ばれていることや、神殿の段の数は、イスラエルが自由と赦しを中心にした共同体であるべきことを思い起こさせ、これからそうした価値を身をもって生きるよう励ますものでした。

同じように、エゼキエルの神殿にあるすべてのものは、六「長キュビト」の長さの竿で測られます。通常のキュビトは手幅六つ分でしたが、エゼキエルはこの特別な「長キュビト」が手幅七つ分だと教えています(エゼキエル書 40:5)。七は、神が世界を創造された日数と同じであり、その七日目に神は休まれました(創世記 2:1〜2)。つまり、神殿にあるすべてのものが、神の創造の力と、神が認めてくださる安息への希望によって測られているということです。これらの細部は、イスラエルが神の定めた働きと安息のリズムに立ち返り、そうして共同体に新しい活力といのちの時代をもたらすよう励ますためのものなのです。

こうした七、二十五、五十への言及は、エゼキエルの神殿に数多くあるうちのほんの一部にすぎません。これらの数字がすべて指し示しているのは、イスラエルが過去の罪から立ち返り、従うようにという招きです。しかし、この寸法は同時に約束でもあります。エゼキエルの幻は、追放されたイスラエルに、神が彼らのために築こうとしておられる自由と赦しと安息の世界を、象徴的な心の絵として与えました。そしてそれは、神がご自身の神殿を去られたとしても、いつか神は帰ってこられ、永遠に続く自由と赦しと安息の場を造ってくださるという希望をも差し出しているのです(エゼキエル書 43:1〜9)。

福音はどこにあるのでしょうか?

イスラエルは、この神殿の幻が示す理想に生きることができませんでした。彼らの王国は、神の民のための自由と赦しと安息の場ではなく、束縛と罪の重荷と疲れの場となってしまったのです。それでも、エゼキエルの幻は彼らに希望を与えたことでしょう。それは、自らの腐敗から立ち返り、神の命令に従い、神が与えようとしておられた王国を受け取る最後の機会を意味していました。さらに大きな希望となったのは、エゼキエルの神殿を建てよと命じられた人が誰もいなかったという点です。建築資材の一覧はなく、高さの寸法も示されていません。エゼキエルの幻が約束しているのは、新しくされた神殿と、自由と赦しに満ちた回復された王国が、どの特定のイスラエル人の努力にもかかっていないということ——それは、もっとすぐれた神殿の建設者のわざにかかっているのです。しかもその建設者はイスラエルではなく、神ご自身です。神は、まことのイスラエル人であるイエスとしてこの地に来られたとき、まことの神殿を建てられました(ヨハネの福音書 2:19〜21)。

かつてのイスラエル人とは違い、イエスはエゼキエルの神殿の幻が示す理想を完全に生き抜かれました。イエスはその力を用いて、病に苦しめられている人々に安息を与え、悪霊に苦しめられている人々に自由を与えられました(マタイの福音書 8:16)。そして地上での最後の時を、神の民すべてのために赦しをもたらす犠牲として死ぬことに用いられたのです(ヨハネの手紙Ⅰ 1:7)。さらにイエスは死者の中からよみがえり、エゼキエルの回復された神殿そのものとなられました。イエスの復活によって、永遠に続く自由と赦しと安息の王国が始まったのです(ヨハネの福音書 18:36)。 

私たちは、建物の完成を待つ必要はありません。イエスを信じているなら、今この瞬間から、安息と、犯した過ちに対する赦しと、これまで虐げられてきた力からの自由を与える王国に、すでに入れられているのです。 

自分の目で確かめてみましょう

聖霊が目を開いてくださり、ご自身の民に新しい神殿を与えようと願っておられる神を見ることができますようにと祈ります。そして、永遠に続く安息と自由と赦しについての、私たちの希望であり保証であるイエスを、仰ぎ見ることができますように。 

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