何が起こっているのでしょうか
ダビデ王は三か月にわたって、神の箱をエルサレムに運び入れる備えを進めてきました(歴代誌Ⅰ 13:14、15:1)。神の箱は神が語りかけられる場所であり、その中には十戒が納められていました(出エジプト記 25:10〜22)。十戒は、神がイスラエルに与えられた律法による導きの要約でした。ダビデは、神の導きと律法が自分の王国の中心に据えられるようにと願い、この箱をエルサレムに置きたいと考えていました。ところが前回それを試みたとき、彼は神の導きに従わず、その律法の一つを破ってしまいました。神の祭司ではなく兵士たちに箱を扱わせたため、ダビデの部下の一人が命を落とすことになったのです(歴代誌Ⅰ 13:7〜11、15:13)。
ダビデは同じ過ちを二度と繰り返しません。神が定められたとおりの仕方で箱を運ぶと固く決意します。そして、これからは箱を扱えるのはレビ族の祭司だけであると宣言しました(歴代誌Ⅰ 15:2)。そのためにダビデは、神の箱を神の都に運び入れる資格を持つ者たちを探し出し、集めます(歴代誌Ⅰ 15:3〜10)。数人の祭司を指導者として任命し、神の律法が示すとおりに箱を扱うよう警告しました(歴代誌Ⅰ 15:11〜15)。さらに、箱が新しい住まいに入ったあと、その周りを囲む祭司の歌い手、楽器の奏者、門衛を任命するようにも命じられます(歴代誌Ⅰ 15:16〜24)。
こうした備えがすべて整うと、ダビデは祭司たちとイスラエルの指導者たちの行列の先頭に立ち、ついに箱をエルサレムへ運び入れます(歴代誌Ⅰ 15:25〜26)。神の導きの箱を王自らが都へ導き入れる姿を見たエルサレムの人々は、歌い、喜び祝い始めました(歴代誌Ⅰ 15:28〜29)。祭司たちは犠牲をささげて祝い、ダビデは町中の人々に祝宴を開いて、神の導きが神の民の中心に住まわれるようになったことを喜びました(歴代誌Ⅰ 16:1〜3)。
箱がついにエルサレムに安置されると、ダビデは箱の前で絶えず歌を作り、歌い続ける祭司たちを任命します。そして最初の歌を書いたのはダビデ自身でした(歴代誌Ⅰ 16:4〜7)。その歌は、戦いに囲まれ、さすらう部族にすぎなかった民を安らかな王国とされた神を賛美するよう、イスラエル全体に呼びかけます(歴代誌Ⅰ 16:8〜22)。それは、彼らに地を与えるという誠実を尽くしてくださったイスラエルの神を、創造されたすべてのものが賛美するようにと求めるものです。さらに世界のすべての国々に、エルサレムに来て神の力と導きを自ら味わうようにと招いています(歴代誌Ⅰ 16:23〜33)。神の民はみな、ダビデの歌に「アーメン」「主を賛美せよ」と応えました(歴代誌Ⅰ 16:34〜36)。この時からイスラエルは、神の導きと律法を中心に据えた国となるのです(歴代誌Ⅰ 16:37〜42)。
福音はどこにあるのでしょうか
イスラエルの王座には、神の律法に従う王が座っています。しかもこの王は、神が語り、民を導かれる場である神の箱を、自分の統治の中心に据えました。これは多くの意味で、歴代誌という書物の頂点と言える場面です。神の王と神の民が、神の律法に従うという共通の献身によって一つに結ばれています。神の箱は彼らの真ん中に住み、どんなことに直面しても導くと約束してくださるのです。
イスラエルと同じように、私たちも神の導きと律法を人生の中心に必要としています。そして良い知らせは、神が、どこに住む人にもそれをしてくださる王としてイエスを遣わされたということです。ダビデが祭司を任命し、犠牲をささげて神の箱をエルサレムへ運び入れたように、イエスは任命された祭司として自らを犠牲としてささげ、神の導きと律法を私たちの心の中に移し入れてくださいました(ヘブル人への手紙 10:16)。イエスによって、神の導きの力の中心は、はるか遠い国の箱の中にあるのではなく、イエスこそ自分の王だと誓う人々の内側にあるのです。
私たちの人生は複雑です。生涯のうちに、何千、いや何百万という大切な決断をすることになるでしょう。もしそれを前もって知ったなら、その数の多さだけで圧倒されてしまうでしょうし、まして神の律法に最もよくかなう選択をする責任を思えば、なおさらです。けれども、圧倒される必要はありません。小さな決断一つで信仰を台無しにしてしまうのではないか、と恐れる必要もないのです(ルカの福音書 12:11〜12)。神はあなたの存在の中心に住んでおられます。その律法を心に書き記し、いつも導いてくださるのです(ヘブル人への手紙 8:6〜12)。それに、ダビデのように神の律法をすべて守りきれないときでさえ、思い悩む必要はありません。ご自分の律法を私たちの内に置くためにイエスがささげてくださったその同じ犠牲の死こそが、神の赦しを永遠に確かなものとしているからです。
ご自分の目で確かめてみましょう
聖霊があなたの目を開き、その民を導かれる神を見せてくださるよう祈ります。そして、あなたの存在のまさに中心に住んでくださる方として、イエスを見ることができますように。

