何が起こっているのでしょうか
アハブの悪しき王家は終わりを迎えようとしていますが、同時に預言者エリヤの働きも終わろうとしています(列王記Ⅱ 2:1)。
アハブの子アハズヤは重傷を負い、回復するかどうかを尋ねるために、エクロンの神バアル・ゼブブのもとへ使者を送ります(列王記Ⅱ 1:2)。しかし神はエリヤを遣わし、アハズヤの使者たちを途中で待ち受けさせます(列王記Ⅱ 1:3)。毛衣をまとい、革の帯を締めただけの姿で、エリヤは彼らに告げます。イスラエルにおられる生ける神に伺わなかったゆえに、アハズヤは死ぬのだと(列王記Ⅱ 1:6、8)。
激怒したアハズヤは、エリヤを捕らえるために五十人の隊を二度にわたって送ります(列王記Ⅱ 1:9)。それぞれの隊が「神の人よ、降りて来い」と叫びます(列王記Ⅱ 1:9b)。「人」を意味するヘブライ語は、「火」を意味するヘブライ語とよく似ています。そこでエリヤは、彼らの脅しと不信に応えて、神の火が降ると告げます。実際に、その火はアハズヤの最初の二つの隊に降りました(列王記Ⅱ 1:10)。しかし三番目の隊は慈悲を求め、いのちを助けられます(列王記Ⅱ 1:13)。慈悲はただ願うだけで得られたのだと知りながら、アハズヤはその後間もなく息を引き取ります(列王記Ⅱ 1:17)。
やがてエリヤはこの世を去り、アハブとイスラエルの偶像礼拝に立ち向かう預言者としての務めは、エリシャに引き継がれることになります(列王記Ⅰ 19:19)。二人はベテルからギルガルへ、そしてエリコへと旅をします。そのどれもが、ヨシュアがモーセを継いだ出来事において重要な場所でした。そしてそのそれぞれの場所で、エリヤはエリシャに預言者の外套を辞退する機会を与えますが、エリシャは決して断ろうとしません(列王記Ⅱ 2:6)。
偽預言者たちの一団は、エリシャを守ってくれる「かしら」も指導者もいなくなるとあざけって、この招きから彼を引き離そうとします(列王記Ⅱ 2:3、5)。彼らは脅しとして、五十人の一隊となってヨルダン川のほとりに集まります(列王記Ⅱ 2:7)。一方エリヤは、モーセやヨシュアと同じように、その外套でヨルダンの水を分けます。そしてエリシャは、エリヤに注がれた油の二倍を神に願い求めます(列王記Ⅱ 2:8〜9)。その直後、エリヤはつむじ風に巻き上げられて天国に上げられ、外套だけが残されました(列王記Ⅱ 2:11)。エリシャはエリヤの後継者としてそれをまとい、あざける預言者たちにこう問いかけます。「主は今どこにおられるのか。」その答えは言うまでもなく、主はイスラエルにおられ、エリシャと共におられる、ということです。
エリシャは自らヨルダンを分けることで、それを証しします(列王記Ⅱ 2:14)。川を分けてエリコを滅ぼしたヨシュアとは違い、エリシャは敵の町をいやします(列王記Ⅱ 2:21)。さらに、新たな若者の一団がエリシャの「頭」に「毛」がないとあざけったとき(これは、エリヤとその「毛」の衣がエリシャを守るために用いられていたことを暗に示す言葉です)、森から熊が出て来て彼らを引き裂きました(列王記Ⅱ 2:24)。天から火が降ってエリヤの正しさが示されたのと同じように、神はエリシャがエリヤの後継者であり、イスラエルの神ご自身によって守られていることを示されたのです。
福音はどこにあるのでしょうか
これは、次の世代が最初の世代よりも偉大であるという、聖書に幾度も現れる継承の物語のひとつです。モーセはイスラエルを約束の地の境まで導きましたが、それを征服して住み着いたのはヨシュアでした。エリヤは力強い奇跡を行いましたが、エリシャは二倍の油注ぎを受け、ほぼ二倍の奇跡を行うことになります(列王記Ⅱ 2:9)。ここでもまた同じヨルダン川で、バプテスマのヨハネは自分の後を継がれるイエスについて、「あの方は栄え、私は衰えなければなりません」と語りました(ヨハネの福音書 3:30)。イエスの働きは、悔い改めのしるしとして人々を水で洗うだけでなく、神の霊に浸すものだったのです(マタイの福音書 3:11)。
私たちもまた、後継者です。エリヤと同じようにイエスが天国に上げられたとき、その権威の外套は弟子たちに受け継がれました(使徒の働き 1:8〜9)。そしてヨシュアやエリシャのように、私たちも御霊によって、先に立たれたイエスよりも大きなわざを行うのです(ヨハネの福音書 14:12)。その油注ぎは二倍にとどまらず、三倍、四倍、いや地上のすべての信じる者へと何十億倍にも広がっていきます。ヨシュアやエリシャが神の霊を味わったのに対し、私たちは神の霊に満たされているのです(ヨハネの福音書 14:20)。
神は、まだ征服されていない境界のそばに、あざける支配者たちの間に、そして悪に満ちた世界の中に、油注ぎを分け与えることなく私たちを置き去りにされたのではありません。ヨシュアも、エリヤも、イエスも、みなヨルダンの水を通り、神がイスラエルで共におられることを知ったように、私たちも洗礼の水を通り、どこにいても神が共におられることを知るのです。それは私たちが天国に上げられるからでもなく、熊が敵を引き裂くからでも、鳩が肩にとどまるからでもありません(マタイの福音書 3:16)。墓が空だからです。
エリシャと共に、私たちもイスラエルの地で、空になったイエスの墓の前に立ち、あざける世界に向かってこう問うことができます。「主は今どこにおられるのか。」イエスが熊のように死を引き裂かれ、その御霊が火のように私たちに降ったことを知っているからです。
ですから、新しいヨシュア、新しいエリシャとして、私たちは敵意に満ちた世界へ恐れることなく出て行きましょう。私たちに先立つ方はすでに世に勝っておられ、その助けはただ伺うだけで与えられるのです。
ご自身で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、ご自分の民と共におられるイスラエルの神を見ることができますように。そして、世に勝つために御霊で満たしてくださった先立つ方イエスを、はっきりと見ることができますように。

