何が起こっているのでしょうか
アハブ王朝の悪と、シリヤとの血なまぐさい戦争。その只中で、エリヤとエリシャの預言者としての働きが進められていきます。悪と抑圧が支配する時代にあって、預言者たちはいのちと自由を映し出す生きた象徴でした。彼らの行う奇跡は、斧の頭が水に浮かぶという出来事に至るまで、例外なく、虐げられたイスラエルの民に良い知らせを告げ知らせると同時に、民を虐げるイスラエルの王たちを告発するものだったのです。
預言者の仲間たちが住む家を建てていたとき、エリシャの弟子の一人が、借りた斧の頭を川に落としてしまいます(列王記Ⅱ 6:5)。エリシャの働きの初期には、油の借金のために息子たちを奴隷に売りかけた未亡人がいました(列王記Ⅱ 4:1)。鉄の斧を失えば、奴隷にされるのはほぼ確実です。ましてや王たちがイスラエルの奴隷売買をはびこらせていた時代ならなおさらでしょう。そこでエリシャは重力を逆転させ、斧は水面に浮かび上がります。これは取るに足りない奇跡などではありません。神が抑圧を劇的にくつがえし、彼を奴隷の境遇から救い出してくださるという証拠なのです(列王記Ⅱ 6:6)。
しかしエリシャが戦っていたのは、イスラエル国内のアハブ王朝の残虐さだけではありません。イスラエルに攻め込むシリヤの侵略とも戦っていました。神はシリヤの作戦計画を預言者エリシャに知らせ、彼はそれをイスラエルに伝えます(列王記Ⅱ 6:9)。負け続けたシリヤの王は、エリシャこそが超自然的な内通者だと気づき、彼を捕らえるために部隊をまるごと送り込みました(列王記Ⅱ 6:14)。ところが神は、ご自身の軍勢でシリヤ軍を取り囲み、兵士を一人残らず盲目にされます(列王記Ⅱ 6:17〜18)。他に道はなく、目の見えなくなった軍隊は神の預言者に導かれるまま、イスラエルの王のもとへ行き着きます。王はこの捕虜たちを皆殺しにしようとしました(列王記Ⅱ 6:20〜21)。
けれども神は彼らの目を開き、エリシャはイスラエルの王に、この兵士たちのために宴を設け、捕虜を解放するよう求めます(列王記Ⅱ 6:23)。エリシャはただの内通者ではありません。彼は、敵をも救うことによってイスラエルに与えようとされる神の救いを、その身をもって体現し、実行しているのです。神が目の見えないシリヤ軍を救われたのは、エリヤとエリシャのうちに現された神の救いと自由を見抜けずにいるイスラエルの王を告発するためでした。見る目さえあれば、イスラエルも救われたはずなのです。
福音はどこにあるのでしょうか
エリシャの奇跡は、イスラエルへの良い知らせの宣言であると同時に、イスラエルへの告発でもありました。神は自由と救いをもたらしておられます。シリヤ人にさえも、です。もしイスラエルが預言者の声に従うなら、負債は支払われ、見えない目は開かれ、彼らは解き放たれるのです。
エリシャの働きと奇跡がそうであったように、イエスの働きと奇跡も、単に力を示すだけのものではありません。それは虐げられたイスラエルの民への良い知らせの預言であり、同時に、神を拒んだ者たちへの告発でもあるのです。
イエスがローマの百人隊長をいやされたことは、信仰を持つすべての人にいやしの力が及ぶという宣言でしたが、同時にイスラエルの信仰のなさに対するさばきでもありました(ルカの福音書 7:9)。娼婦や取税人がイエスの食卓に着くとき、それは私たち自身が壊れた者であり、病んでいることを認めるようにという招きであり、それと同じだけ、神が外の者を受け入れてくださることを喜ぶようにという招きでもあります(ルカの福音書 5:30〜31)。イエスが盲人をいやされたのは、目の見えない人への力ある良い知らせの宣言であるだけでなく、「自分は見える」と主張する人々へのさばきでもありました(ヨハネの福音書 9:7、41)。失われた斧の話とよく似た出来事があります。ペテロが納める税金について、イエスは魚の口の中にその金があると言われました(マタイの福音書 17:27)。沈んだ斧と同じように、金属の硬貨が水面へと引き上げられ、負債が支払われるのです。これは単にイエスの力を示す出来事ではありません。聞こうとする耳と見る目さえあれば、神が私たちを負債から救い出してくださるという証拠なのです。
エリシャの時代のイスラエル、イエスの時代の宗教指導者たち、そして日々を生きるほとんどすべての人が、神の預言者と、その預言的なしるしを退けてしまいます。私たちはそれを単なる力の現れとしか見ないか、さらに悪いことに、その預言としての意味そのものを退けてしまうのです。けれども、自分は目が見えないのだと認め、神の預言者であるイエスの声に従うなら、私たちの負債は完全に支払われ、見えない目は開かれ、私たちを捕らえていたものから解放され、敵の前で宴にあずかることができるのです。ですから、イエスの声に従い、自分の目で確かめてみましょう。
自分の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、ご自分の預言者を遣わされた神を見ることができますように。そして、イエスの奇跡には取るに足りないものなど一つもなく、そのすべてが良い知らせの宣言であり、悔い改めへの招きであることが見えてきますように。

