何が起こっているのでしょうか
燃えるような日の出のように、神は火のような嵐の中に現れます(詩篇 50:1、3)。けれども、これは良い知らせではありません。神の民は、シナイ山で神と結んだ契約を誤解してしまっていました(申命記 30:19)。神が定められた犠牲と従順は、誤って用いられ、さらには忘れ去られてしまっています。ここで二つの集団、道徳主義者と偽善者が証人席へ呼び出され、天と地のすべてがその審理を見守る証人として召し出されます(詩篇 50:1、2、4)。
道徳主義者たちは、神が自分たちの奉仕を必要としているかのように思い込み、動物の犠牲をささげていました(詩篇 50:8)。雄牛や雄やぎを熱心にささげ、全能の神の必要を満たしていると信じていたのです。しかし彼らは、神が豊かさに満ちた神であることを忘れていました。世界のすべての動物は神のものであり、人に養ってもらう必要などまったくないのです(詩篇 50:10〜11)。神は道徳主義者たちに思い起こさせます。ご自分は貧しくも飢えてもおらず、人がささげる雄牛や雄やぎの血という犠牲に頼らなければならない方ではないのだと(詩篇 50:9)。もし必要であれば、神はご自分のために犠牲を備えることができるのです(詩篇 50:12)。
一方、偽善者たちは神のことばを軽々しく扱うことで、自分の誠実さを犠牲にしています(詩篇 50:16、21)。神の律法を口では唱えながら、神の憎まれることを行い、神の寛容と恵みを、悪を行うための許可証のように言い張るのです(詩篇 50:17〜20)。彼らは、神がご自分のことばを真剣に受け取られることを忘れていました(詩篇 50:20〜21)。律法を不誠実に扱う者を罰する、と神は偽善者たちに思い起こさせます(詩篇 50:22)。神は軽々しい方ではないので、語られたことばに忠実なのです(詩篇 50:21〜22)。
神の民は、神との契約を誤解していました。犠牲や律法を必要としていたのは、神ではなく、いつも民の側だったのです。道徳主義者も偽善者も、犠牲と律法の目的をもう一度見いだす必要があります(詩篇 50:14、23)。それらは無視してよいものでも、神の腹を満たすための手段でもなく、救いと豊かさの神に感謝をささげるためのものでした。むしろ神の民は、道徳主義者も偽善者も、感謝の犠牲をささげなければならないのです。
福音はどこにあるのでしょうか
神はいつもご自分の民のために備えてくださいます。神はいつもその豊かさから惜しみなく与え、民が神との交わりを喜べるようにしてくださるのです。犠牲や律法は、神から何かを得るための手段ではなく、必要なすべてを与えてくださった神への応答なのです。実際、神はシナイ山で律法を与えるよりも前に、イスラエルをエジプトから救い出しておられました。
そしてイエスにおいて、神は再び私たちに必要なすべてを豊かに備えてくださいました。イエスこそ、神が必要とされるただ一つの犠牲です(ローマ人への手紙 8:32)。またイエスは神のことばであり、神の律法を真剣に受け取り、完全に守り通されました(ヨハネの福音書 1:1、14;ローマ人への手紙 8:3〜4)。イエスは道徳主義者でも偽善者でもありませんでした。ご自分こそ、神が民に約束された犠牲であることを知っておられたのです。イエスは従順にご自身をささげられました。それは囲いの中のどんな雄やぎよりもすぐれ、人間が軽々しく口にするどんなことばよりも確かなものでした(ヘブル人への手紙 9:12〜14)。ですから今、道徳主義者にも偽善者にも良い知らせがあります。神に感謝をささげましょう。イエスにおいて、犠牲はすでに備えられました。もうささげるべきものは残っていません。そしてイエスにおいて、完全な従順も備えられました。もう成し遂げるべきことは何も残っていないのです。
ですから、神に感謝しましょう。イエスは、従順や犠牲を求める前に、すでに罪から救い出してくださったのです(コロサイ人への手紙 3:17)。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いて、民に必要なものを与えてくださる神を見せてくださるよう祈ります。そして、イエスこそ犠牲であり従順であることを、感謝とともに見出されますように。

