何が起こっているのでしょうか
エルサレムは悪に覆い尽くされ、ダビデ王は、助けを求める自分の叫びを聞き流さないでくださいと神に願います(詩篇 55:1〜2)。力ある敵の悪と、裏切る友の悪とが重なり合い、ダビデは打ちのめされています。
敵はダビデの上に暴力を降り注がせます。敵意に満ちた言葉が、痛みとなって彼を打ちます(詩篇 55:2〜3)。死の恐怖は、ダビデを震えるばかりの姿にしました(詩篇 55:4〜5)。しかも、親しい友が口先の巧みな言葉で信頼を裏切ったのです(詩篇 55:20〜21)。敵の打撃にはかろうじて耐えられても、友の裏切りは、傷ついた心を言葉にできないほど深い淵へと沈めてしまいます(詩篇 55:12〜14)。ダビデは、敵の暴力と友の裏切りによって自分は終わってしまうのではないかと恐れています。願いはただ一つ、恐怖から遠く逃れ、荒野の隠れ場に身を寄せて安全に過ごすことでした(詩篇 55:6〜8)。
ダビデが自分の都を見渡すと、そこはすでに悪に踏み荒らされています。城壁の上を暴力と争いが歩き回り、家々には悪意と虐げが住みつき、通りには脅しと偽りがつきまとい、町は破壊に支配されています(詩篇 55:9〜11)。都に満ちあふれる悪のゆえに、荒野の粗末な小屋のほうが住むにふさわしい場所に思えてくるのです。
ダビデは、自分の周りにある悪が終わるようにと祈ります。そして神は、ダビデの祈りを聞き、答えてくださいます。助けを呼び求めるたびに、神は救ってくださるのです(詩篇 55:16〜17)。ダビデは、神が横行する悪によって縛られることはないと知っています。神はご自身の民を危険から救い出し、守り続けてくださいます。攻撃をやめようとしない者たちを罰し、罪のない者が巻き添えの犠牲になるままにはされません(詩篇 55:18〜19)。この悪に満ちた都にあっても、神は自分の声を聞き、支えてくださると、ダビデは知っているのです(詩篇 55:22)。
福音はどこにあるのでしょうか
イエスは、ダビデの置かれた状況を痛いほどよくご存じでした。イエスもまたエルサレムを暴力の場所として、預言者を殺し、罪のない人々を迫害する都として語られました(マタイの福音書 23:37)。イエスの友たちは、その場を去り、あるいは知らないと言い、あるいは裏切りました(マタイの福音書 26:48〜49、56、69〜74)。敵の脅しは痛みとなってイエスを打ち、むち打ちと釘は、その体を震えるばかりの姿にしました。
敵の暴力と友の裏切りが、イエスを死に至らせました。罪深い人間が投げつけうるすべての苦しみを、イエスは身に受けられました。そして、ご自分の都の悪によって砕かれるままになられたのです。ダビデが恐れた死は、イエスにおいて現実となりました。けれども、ダビデが抱いた安全への希望も、イエスにおいて実現しました。イエスが敵の残虐さと友の裏切りを耐え抜かれたのは、新しいエルサレムを建てるためでした。人々が逃げ去る都ではなく、群れをなして集まってくる都——暴力の被害者が安全を見いだし、不安に苦しむ者が平和を見いだす場所です(ヨハネの黙示録 21:26〜27)。イエスにあって、罪のない者はもはや悪者たちの戦いの巻き添えの犠牲ではなく、すべての戦いを終わらせる御国の市民とされます。そして私たちもダビデのように、悪の終わりを祈り、神が建ててくださる都で永遠に守られると知ることができるのです。
ご自身の目で見てみましょう
ですから、聖霊が目を開いてくださり、ご自身の民を暴力と不安から救い出される神を見ることができるように祈ります。そして、悪しき人々の残虐さを耐え抜き、その人々を安全と平和の都へ導き入れてくださる方として、イエスを仰ぐことができますように。

