何が起こっているのでしょうか
神は六日間で世界を形づくり、七日目には、神がご自身の創造したものに必要なすべてを備えてくださったので、その世界は休息に入りました(創世記 2:1〜2)。そして、最初の安息の日以来、神は御国の民すべてに、週の七日目に休むよう命じておられます。詩篇 92篇は、安息日ごとに歌われるために書かれた詩で、民の必要を夜ごとに満たし、労働から休ませてくださる永遠の王として神をたたえています(詩篇 92:1〜3)。詩人はまず、一週間をかけて世界を支え、その必要を満たしてこられた、勤勉な王として神を賛美します(詩篇 92:4〜5)。不正な手段や悪の道によって自分を養い、自分を支えようとする者たちがいる一方で、安息日の王の備えのうちに憩う者だけが、その御国でとこしえに栄えると詩人は歌います。神の王権と安息日の休みを拒む者は、しばらくして枯れる草のようになる定めなのです(詩篇 92:6〜9)。
しかし、神の備えのうちに憩うすべての人には、貴い客をもてなす気前のよい主人のように、神が新しい力を与えてくださいます(詩篇 92:10〜11)。御国では、疲れきった民がその身に休息を見いだし、年老いてもなお力強くあり続けます。神の安息日を拒む者とは違い、憩う者は力強いレバノン杉のようになり、年を重ねるほど強く、実り豊かになっていくのです(詩篇 92:12〜14)。この安息日の歌は、神の国のすべての者に、神は惜しみなく与える勤勉な王であり、変わることのない岩のように、民に備えることをやめられない方だと宣べ伝えるよう呼びかけて閉じられます(詩篇 92:15)。
福音はどこにあるのでしょうか
究極的には、永遠の王である神は、御子イエスの支配を通して、すべての民に休息を与え、必要を満たしてくださいます。地上におられた間、イエスは神の国の到来を告げ知らせ、弱く、働きに疲れた人々に、ご自分のもとに来て休むよう招かれました(マタイの福音書 4:17、11:28)。イエスの働きの日々は、御国の民に休息を与える行いに満ちていました。病人をいやし、悪霊や病に虐げられた人々を解き放ち、飢えた人々をもてなし、神の国について教えられたのです(ルカの福音書 9:11、16〜17)。そして、創造の第一日に闇の中から光を呼び出されたように、イエスは墓の闇から人々をよみがえらせました(ルカの福音書 7:14〜15、ヨハネの福音書 11:43〜44)。イエスこそ究極の安息日の王であり、父とともに、御国の民に休息を与え、死を越えた長いいのちを備えてくださる方なのです。
しかし、イエスの休息の王国に異を唱える人々もいました。当時の宗教指導者たちは、安息日に人を養い、いやしたイエスを非難しました(マタイの福音書 12:1〜8、ルカの福音書 13:10〜14)。けれどもイエスは、神の民に休息を備えるのは安息日の王の務めであることを彼らに思い起こさせます(ルカの福音書 13:15〜16)。休息の王であるイエスは、弱く飢えた民のために備えるために来られました。民にいのちを、しかもとこしえに実を結ぶいのちを与えるために来られたのです(ヨハネの福音書 10:10、15:16)。ところが、自分たちの王国を守ろうと悪をたくらむ者たちがいました。宗教指導者たちは、自分たちの王だと主張するイエスを憎み、殺してしまったのです。しかしイエスの死は、民のために備え続けた長い生涯の後の安息にほかなりませんでした(ヘブル人への手紙 4:9)。そしてわずか三日後、イエスは死からよみがえり、すべての創造を治める王座へと昇られました(ルカの福音書 24:50〜51)。イエスは今、永遠に王として治めておられ、ご自身のうちに憩う者にいのちを与えるために、今も働き続けておられます。ですから、イエスのもとに来て、憩ってみませんか。イエスに支えていただき、その御国で休ませていただきましょう。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、休息の御国へと私たちを招いてくださる神を見ることができますように。そして、神の休息の国を民にとこしえにもたらしてくださる方として、イエスを仰ぐことができますように。

