何が起こっているのでしょうか
神は、イスラエルの絶えることのない悪と邪悪さに対する罰として、彼らを追放されました。そこで詩人は、自分と民がどれほどの高みから落ちてしまったのかを思い巡らします。民に罪があることを知り、神が罰されるのは正しいと認めています。それでもなお、神が再び恵みを向けてくださることを切に願い、はたして民は神の罰を生き延びられるのだろうかと問いかけているのです。
もともと神は、ほとんど何もないところからイスラエルを一つの民として造り上げ、住むべき地を与え、害から守ってくださいました(詩篇 90:1)。しかし今や、神は彼らを滅ぼす者となり、その存在を絶やそうとしておられます(詩篇 90:2〜3)。神は時にも死にも衰えることなく、少しも損なわれません。そのお方が、真昼の日ざしに枯れる草のように民のいのちがしぼんでいくのを見ておられるのです(詩篇 90:4〜6)。イスラエルを造られた神が、追放された民の衰えを前にして、今は少しも動じておられないように見えます。
民の苦しみにもかかわらず、詩人は神の罰はふさわしいものだと考えています。民の罪責を認め、この追放は当然の報いなのだと嘆きます。国を荒らし、人々を故郷から追いやった侵略軍も、彼らの悪に対する正当な罰なのです(詩篇 90:7〜8)。それでも、民が罰を受けて苦しむ姿をこれ以上見ていることはできません。神の公正な怒りはなお彼らに向かって燃え続け、すぐに収まる気配もありません。追放はすでに七十年も長引き、詩人には、これ以上民が生き延びられるとは思えないのです(詩篇 90:9〜11)。
自分たちの罪責を思うとき、唯一の希望は神の慈悲に身を投げ出すことだと詩人は知っています(詩篇 90:12)。そして、神があわれみのままに行動し、怒りを収めてくださるよう願います。神のあわれみは怒りにまさることを知っているからこそ、それに値しない民にあわれみを注いでくださるよう懇願するのです。神の怒りから逃れる道は、神の慈悲のほかにありません(詩篇 90:13)。詩人は、死と苦しみの時代の後に、喜びと歌をもたらしてくださるよう祈ります(詩篇 90:13〜15)。神のあわれみと愛の日々が、怒りと罰の日々をはるかに上回ることを、後の世代が見て祝うようになってほしいと願っているのです(詩篇 90:16〜17)。
福音はどこにあるのでしょうか
詩人の祈りは、私たち自身も、罪責と悪と邪悪さによって神から引き離された追放の身なのだと考えるよう招いています。同時に詩人は、神の公正な怒りは大きいけれども、それに値しない者に向けられるあわれみはさらに大きいと信じてほしいと願っています。隔たりと追放を終わらせ、神の守りと愛のうちにある関係へ立ち返るために、神の慈悲に身を投げ出すよう促しているのです。
しかし、人間が神から逃れる道は神ご自身のほかにないからこそ、神は慈悲をもって人となり、罪責と悪が当然招くはずの結果からご自分の民を救い出してくださいました(コロサイ人への手紙 1:15、ヘブル人への手紙 1:3)。神はイエスにおいて天国の高みを離れ、民を救うために地上での追放の身となられたのです。しかも、本来ご自分が受けるべきものではなかったのに、イエスは最も深い追放、すなわち神からの究極の隔たりである死を、従順に受け入れられました(ピリピ人への手紙 2:5〜8)。そうしてイエスは民の代わりに罰を受け、神の公正な怒りを受け尽くしてくださいました。それは、それに値しない者たちに神があわれみと慈悲を注ぐことができるためです。私たちは神の公正な怒りを受けるのではなく、イエスのうちにあって、値しない者にも注がれる神のあわれみを見いだし、受け取ることができます。イエスがそのことを確かに示してくださったのです(使徒の働き 4:12)。ですから、詩人が読者に語ったように、私たちもイエスにおいて現された神の慈悲に身を投げ出さなければなりません。
ご自分の目で見てみましょう
聖霊が目を開いて、従わない者にもあわれみを注がれる神を見せてくださるよう祈ります。そして、慈悲を求めるすべての人にいのちを与えるために死の苦しみを受けられた方として、イエスを仰ぐことができますように。

