何が起こっているのでしょうか
エゼキエルは二つの預言を通して、イスラエルの不誠実さと、自分たちの神を捨てた結果を描いています。聖書全体を通して、イスラエルは実を結び、世界にいのちをもたらすために特別に選ばれたぶどうの木として描かれてきました(創世記 49:22、詩篇 80:8〜11、イザヤ書 5:1〜7)。ところが、エゼキエルの最初の預言では、イスラエルに実はなく、ぶどうの木は乾いてもろくなっています。他の枯れた木であれば家具などの役立つものに作り変えられますが、枯れたぶどうの木にできることは、よく燃えることだけなのです(エゼキエル書 15:1〜5)。バビロンによる最初の侵略のとき、神は腐敗した指導者たちの何人かをバビロンの都に連れ去ることで、イスラエルの多くの「ぶどうの木」を焼かれました。そしてエゼキエルは、間もなく神が再びバビロンを送り、さらに多くのイスラエルの民が連れ去られると預言します(エゼキエル書 15:6〜8)。
二つ目の預言では、エゼキエルは想像力豊かに、イスラエルを荒野に捨てられて死ぬしかない裸の女の赤ん坊として描きます(エゼキエル書 16:1〜5)。神はその子を見つけるとすぐに抱き上げ、家に連れ帰り、ご自分の守りのもとで新しいいのちを与えてくださいました(エゼキエル書 16:6)。やがて娘が若い女性に成長すると、神はいつも彼女を守り、養うと約束されます。そして彼女と結婚されるのです(エゼキエル書 16:7〜8)。愛情深い夫のように、神は最高の衣服や宝石を惜しみなく彼女に贈られます。さらに王のように、彼女を女王として立て、統べ治めさせてくださいます(エゼキエル書 16:9〜14)。この一連のイメージは、神がエジプトでの奴隷状態から自分たちを救い出し、約束してくださった地に王国を与えてくださったことを、イスラエルに思い起こさせるはずです。
エゼキエルはさらに想像力豊かにイスラエルの歴史を語り直し、彼女がどれほど早く新しい夫を捨ててしまったかを描き出します。彼女は自分の美しさと権力を利用して、世界中から求められる遊女となりました。神からいただいた贈り物を使って聖所や偶像を造り、他の国々の神々と寝床を共にするのです(エゼキエル書 16:15〜19)。多くの異国の王の好意を得ようとする欲望のあまり、彼女は自分の子どもたちを異国の祭壇でほふります。イスラエルが始まったときに神が示してくださった配慮とあわれみをすっかり忘れ、神が無償で与えてくださった愛と守りを、今度は他の国々に代価を払って求め始めたのです(エゼキエル書 16:20〜34)。花嫁が自分を世界に売り、身をさらすことをそれほど好むのなら、神は彼女の愛人たちをすべて集め、彼らの思いのままにさせようと言われます。その不誠実と偶像礼拝のゆえに、イスラエルはかつて代価を払った国々に略奪されるのです(エゼキエル書 16:35〜42)。エゼキエルは、エルサレムは邪悪さと性的な乱れで悪名高い二つの町、ソドムやサマリアよりもさらに悪いとまで語ります(エゼキエル書 16:43〜52)。
驚くべきことに、エゼキエルは、イスラエルが荒廃した後、神が彼女をかつての美しさに回復させてくださると語ります(エゼキエル書 16:53〜58)。イスラエルが神の怒りを受けて当然のことをすべてしてきた後でさえ、神は結婚の誓いを新たにすると約束されるのです(エゼキエル書 16:59〜61)。神は再び来て、彼女の過去の不貞を赦し、迷い出た花嫁にとって愛情深い夫となってくださいます。それは永遠に変わりません(エゼキエル書 16:62〜63)。
福音はどこにあるのでしょうか
エゼキエルの預言のことばは読むのがつらいものですが、それも狙いの一部なのです。イスラエルに衝撃を与え、自分たちの行いの恐ろしさを見させるためのものでした。神から見れば、政治的にも宗教的にも不誠実になったイスラエルは、恥じることのない遊女、あるいは火にくべられるばかりの枯れ木となっていたのです。しかしエゼキエルは、イスラエルが逃げ出した花嫁であっても、神は追い求める夫であると語ります。そしてついに花婿である神は、イエスにおいて、不誠実な花嫁を取り戻すために来てくださいました。
イエスの最初の奇跡は結婚式で起こり、イエスに最初に従った人々の中には遊女や性的に不道徳な人々がいました(ヨハネの福音書 2:1〜12、マタイの福音書 21:31)。イエスは、迷い出た花嫁と結婚したいと願われる神なのです。エゼキエル書では、花嫁を追い求める神の姿は、幼い少女を守り、女王とし、贈り物を惜しみなく与えることとして描かれていました。しかし逃げ出した花嫁を追い求めるイエスの姿は、彼女の不貞を洗い流すために耐え抜かれた大きな苦しみの中に見られます。自分では得ることのできない尊厳を彼女に着せるために、イエスは十字架の上で衣をはがされました(ヨハネの福音書 19:23〜24)。彼女の傷をいやすために、打たれ、殺されました(ペテロの手紙Ⅰ 2:24)。イエスは、花嫁の過去の不品行を永遠に洗い去るために、恥辱と死を通って花嫁を追い求められたのです(エペソ人への手紙 5:25〜27)。イエスこそ、エゼキエルの預言が語る誠実な夫なのです。
神がご自分の民を追い求めるのを、何も止めることはできません。イエスの話は、神が赦そうとされない不誠実、乱れ、偶像礼拝など一つもないことを、私たちに示しています。どれほど神から逃げてきたとしても、それは問題ではありません。神のほうがこちらへ走ってきてくださるのですから。そして今この瞬間も、神は永遠に愛する者として受け入れる用意をして、待っておられます。
ご自分の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、民の不誠実にもかかわらず彼らを愛される神を見ることができるよう祈ります。花嫁にご自分のいのちと栄光を与えるために、その花嫁のために死んでくださった方として、イエスを見ることができますように。

