何が起こっているのでしょうか
詩篇 113篇から117篇は「ハレル詩篇」と呼ばれています。「ハレルヤ!」という言葉が繰り返し出てくるからです。これらの詩篇は、イスラエルが毎年の過越の祭で歌い継いできたものでした。出エジプトのあの過越の夜、イスラエルも諸国の民も、自分が信頼していたものと同じ姿になっていきました。エジプトとファラオは死んだ偶像に信頼し、自分たちの家に死を招き入れました(出エジプト記 11:4〜7)。けれども、生きておられる神に信頼した者はみな、家にいのちを迎え入れたのです。イスラエルが過越の祭を祝い続ける中で、詩篇 115篇は、偶像と神との間にある「いのちと死」ほどの違いを思い起こさせました。
神が諸国の偶像にまさっておられるのは、ご自分の民との特別な関係があるからです。イスラエルが誠実でなかったときにも、神は彼らを祝福するという約束に誠実であり続けました。イスラエルは追放されました。それは、彼らが諸国の民の間で神の名を汚し、神の善さと愛を世界に映し出すことに失敗したからです。それでもなお、神は諸国の民の前で、ご自分の名の正しさを明らかにされます。神が愛をもって民を追放の地から連れ出し、故郷へと帰らせるとき、諸国の民は、神とその民との特別な関係の中に神の善さを見るのです(詩篇 115:1、エゼキエル書 36:22〜24)。
また神は、目に見えないという点でも偶像にまさっておられます。金や銀で形づくられ、目に見える形で祭られた神々を持つ諸国の民から見れば、イスラエルの目に見えない神は、敗北してどこにも見当たらない神のように思えたでしょう(詩篇 115:2)。これに対して詩人はこう答えます。諸国の民は偶像を造るとき、それを自分の手の中に握ることができますが、天さえもイスラエルの神を包み込むことはできないのだと(詩篇 115:3〜4)。偶像は職人に閉じ込められていますが、イスラエルの神は自由で、みこころのままに行われます。諸国の民は偶像に口、目、耳、鼻、手、足、のどを与えました。しかし、それを造った人間と違って、偶像はそのどれ一つも使うことができません(詩篇 115:5〜7)。偶像は死んでいるのです。そして詩人は、そのような偶像に信頼する者は偶像と同じようになる、と警告します(詩篇 115:8)。
それとは対照的に、イスラエルの神に信頼する者は、その神に似た者となります。イスラエルの神を賛美する者は、生きていて、歌っています。諸国の偶像を賛美する者たちが死んで口をつぐんでいるのとは、まったく違うのです(詩篇 115:9〜11)。いのちの神に信頼する者は、さらにいのちを生み出していきます。神が彼らを祝福し、自由に走り回り歌う子どもたちを与えてくださるからです。自分では立つことさえできない、硬く口のきけない偶像とは対照的です(詩篇 115:14)。
人は誰でも、自分が信頼するものに似ていきます。死んだ偶像に信頼する者は、偶像のかたちに造り変えられ、さらに死を生み出します。神に信頼する者は、神の生きたかたちに造られた子どもたちと共に家族を築いていきます。神の民は豊かに実る約束の地を受け継ぎ、全地を神のいのちと賛美で満たしていくのです(詩篇 115:16〜18)。一方、死んだ偶像は、自分に信頼する者に沈黙の墓しか与えることができません。
福音はどこにあるのでしょうか
詩篇 115篇は、何もできない偶像と、みこころのままにすべてを行われる神との間にある「いのちと死」ほどの違いを、イスラエルに思い起こさせました。そして究極的には、天国におられ、何でもみこころのままに行われるこの目に見えない神が、イエスにおいて目に見える方となることを喜ばれたのです(ヨハネの福音書 1:14、18)。人間は、聞こえない耳、見えない目、話せない舌を持つ偶像を自分たちのかたちに造りましたが、神は、聞こえる耳、見える目、語る舌を持つ者として、ご自身を私たちのかたちに造られました。イエスが私たちのかたちを身にまとってくださったのは、私たちがイエスのかたちを身にまとうためだったのです(ローマ人への手紙 8:29)。
イエスは、死んだ偶像のようになってしまった者たちを、生きておられる神のかたちに造り変えるために来られました。イエスが行かれるところではどこでも、偶像と死に捕らわれていた人々にいのちが与えられました。その働きの全体を通して、イエスは聞こえない耳を開いてご自分の声を聞かせ、見えない目を開いてご自分がどのような方かを見せてくださいました(マルコの福音書 7:32〜35、ヨハネの福音書 9:6〜38)。また、動かなくなって硬くなった手足を、本来の働きができるように回復してくださいました(ルカの福音書 5:18〜25)。イエスが私たちのかたちに造られたのは、死のかたちから私たちを癒すためだったのです(マタイの福音書 8:16〜17)。
そして究極的に、生きておられる神であるイエスは、私たちのかたちを身にまとい、死に至るまでその道を歩まれました(ピリピ人への手紙 2:6〜8)。イエスご自身が墓からよみがえられたので、私たちがこの方に信頼するとき、私たちもこの方に似た者となります。イエスに似た者となることによって、墓の中の、聞こえず、動かず、語ることもできない状態から、今よみがえることができるのです(ローマ人への手紙 6:5)。自分に信頼する者の体を死んだものにする死んだ偶像とは違い、イエスはご自分に信頼する者の体を生かしてくださいます。
神は諸国の民の前で、ご自分の名の正しさを明らかにされました。諸国の民は、いのちの神を殺せると考えていました。しかし、その復活によって、全世界とその神々は見たのです。イエスにおいて、生きておられる神は死からいのちを生み出すことができる、ということを(使徒の働き 3:15)。
イエスは何もしないでおられるのではありません。今、イエスは天国から治め、教会を通して地上に目に見える形で生きておられます。イエスに信頼する者は、教会において、この方の生きた体――その口、目、耳、手、足――となるのです(エペソ人への手紙 4:10〜13、5:30)。教会を通して、イエスの手は今も癒し、その口は今も語り、その足は今も歩んでいます。イエスが私たちをご自分のかたちに造り上げてくださるにつれて、ますます多くの人が死んで沈黙した偶像を後にし、地をいのちで満たしておられる生きておられる神、イエスに信頼し、賛美するようになるのです。
ご自身の目で見てみましょう
聖霊が目を開いてくださり、死んで口もきけない偶像にはるかにまさる神を見ることができますように、と祈ります。そして、人がご自分に似た者となるために人となられた神、イエスを見ることができますように。

