何が起こっているのでしょうか
この歌の中で、ダビデは二つの面から神の力をほめたたえています。過去に神の力が自分のために成し遂げてくださったことを感謝し、さらにこれから神の力が自分のために成し遂げてくださることに信頼を置いているのです(詩篇 21:1)。
神はその力をもって、ダビデを豊かに祝福されます(詩篇 21:3前半)。王冠、永遠のいのち、栄光、輝き、威光、そしてそれ以上のものをダビデにお与えになりました(詩篇 21:5)。
神がこのように力を用いられるのは、ダビデに永遠の祝福を約束されたからです。その子孫の一人が、いつまでも王座に着くという約束です(サムエル記Ⅱ 7:13)。
ダビデが喜び歌う祝福はすべて、この王座と結び合わされています。だからこそダビデは、自分と子孫に注がれる神の変わらぬ愛に信頼を置くのです。何が起ころうとも、自分の王国と王座は揺るがされないと知っているからです(詩篇 21:7)。
とはいえ、ダビデを王座から揺り動かそうとする脅威は数多くあります。だからこそダビデは、これから先のことについても神の力に信頼を置いています。
神の力強い御手が、自分と自分の王座を敵から守ってくださる。ダビデはそう信頼しています(詩篇 21:8)。ここでの神の力がもたらすのは、王冠や輝きや威光ではなく、火であり、燃える炉であり、引き絞られた弓です(詩篇 21:9)。
敵がダビデや彼の王座に対してどのようにたくらもうとも、神はその悪しき計画を彼ら自身に向けて返されます(詩篇 21:11)。最後には、ダビデに王冠を与え、その王座を守るために力を用いられたその御業によって、神はほかのどんな力にも勝る方として仰がれるのです(詩篇 21:13)。
福音はどこにあるのでしょうか
神の力は、イエスにおいて完全に現されました。イエスこそ、神の力によって王冠を受け、その王座を敵から守られる、約束されたダビデの子孫です(マタイの福音書 1:1)。
しかしイエスは、思いもよらない方法で王座に着き、敵を打ち破られました。
敵は、ダビデの最後の子であるこの方を十字架につけようとたくらみました。全宇宙の王が受け取ったのは、いばらの冠でした(マタイの福音書 27:29)。星の光を衣とされていた神が、裸にされました(マタイの福音書 27:28)。日々に初めも終わりもない永遠の神の子が、十字架の上で死なれたのです(マタイの福音書 27:50)。
しかしこれこそ、神がその力を用いて敵を征服し、ダビデに変わらぬ愛を示される、まさにその道筋でした。死という弱さの中にあってさえ、神はイエスを墓からよみがえらせることによって、ご自身が測り知れないほど強い方であることを示されたのです(エペソ人への手紙 1:19〜20)。
イエスの死と復活のうちに、神の力が弱さのうちに完全に現されるという事実の、最も鮮やかな姿を見ることができます(コリント人への手紙Ⅱ 12:9)。
十字架を通して、イエスはあらゆる王座にまさる王座と、あらゆる力にまさる力を与えられました(ペテロの手紙Ⅰ 3:22)。
そして今、イエスはその力を用いて、かつては敵であった私たちを引き寄せ、ダビデが祈り求めた王冠と輝きと威光のすべてを、私たちに与えてくださるのです(ペテロの手紙Ⅰ 5:4)。
ご自身の目で見てみましょう
聖霊がその目を開いて、すべての力の神を見せてくださいますように。そして、その力を用いて私たちのために十字架へと向かわれたイエスを、はっきりと見ることができますように。

