何が起こっているのでしょうか
詩篇38篇と同じように、ダビデは自分の罪のゆえに苦しんでいます(詩篇 39:9)。けれども詩篇38篇と違い、その苦しみによってダビデは、自分の一生がいかに短く、成し遂げたことがいかにむなしいかを思い巡らすようになります(詩篇 39:5)。
ダビデの周りには敵がいて、その欠点を言い立てたり、弱い立場につけこもうとしたりしています(詩篇 39:1)。それでもダビデは何も言いません。自分が神のさばきの下にあることを知っているからです(詩篇 39:9)。
しかし黙っている時間が長くなるほど、心の内の思いはますます激しくなっていきます。神から語るべき言葉を与えられたとき、骨の中に閉じ込められた火のようだと感じた預言者エレミヤのように、ダビデも語らずにはいられなくなるのです(エレミヤ書 20:9)。
そして口を開いたとき、知りたいと願ったのは、自分の一生がどれほど短いのかということでした(詩篇 39:4)。伝道者の書の著者と同じように、ダビデは、神の懲らしめの下にある自分の人生は一息のようなものだと告げます(詩篇 39:5)。この「息」という言葉は、伝道者の書で「むなしい」と訳されているのと同じ言葉です(伝道者の書 1:2)。人も、その富も、その業績のすべても、神の懲らしめの下では幻のようなものにすぎません(詩篇 39:11)。私たちはあくせくと動き回りますが、何も変えることができず、ただすべてを通り過ぎていくだけなのです(詩篇 39:6)。
ダビデの唯一の希望は、神の救いにあります(詩篇 39:7〜8)。今のダビデは、神から遠く引き離され、疎遠になったように感じています(詩篇 39:12)。神の懲らしめのまなざしは耐えがたいほどで、最後の祈りでは、死ぬ前に御顔をそらしてくださいと願うのです(詩篇 39:13)。
福音はどこにあるのでしょうか
ダビデにとって、自分の努力がむなしいと感じる経験も、人生の短さも、私たちの罪に対する神の責めでした(詩篇 39:10〜11)。「こんなことに何の意味があるのだろう」と思ったことがあるなら、ダビデが味わったものがどんなものか、おわかりになるでしょう。自分の努力には何の価値もなく、人生を無駄にしてしまったと感じる瞬間は、だれにでもあります。そのようなとき私たちは、神を抜きにした人生がもたらす結果を味わっているのです。
この詩篇は、沈黙を破り、救ってくださいと神に叫び求めるよう私たちを招いています(詩篇 39:8〜9)。そして、むなしさと迫り来る死から救ってくださいと神に叫ぶとき、イエスはその両方と戦うことによって答えてくださるのです。
十字架の上で、イエスはむなしさと死に圧倒されました(詩篇 39:10)。罪のない、いのちの神が、罪ある人々の罪のために死ぬこと以上にむなしいことがあるでしょうか。何一つありません。それ以上にむなしいことなど、どこにもないのです。使徒パウロは、もしイエスが死からよみがえらなかったのなら、私たちはこの世で最もあわれな者だと言っています(コリント人への手紙Ⅰ 15:19)。
しかしイエスは確かによみがえられました。そして死から、また墓のむなしさからよみがえられたとき、それは後に続く者たちのほんの最初にすぎませんでした(コリント人への手紙Ⅰ 15:20)。今、イエスを信じる者はみな永遠に生きます。自分の労苦は一つも無駄にならず、永遠の意味を持つと確信することができるのです。イエスの復活に信頼する者はみな慰めを受けられます。その人生は短いもので終わらず、永遠に続くからです。
ご自分の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、むなしさと短い一生をもって私たちの罪をさばかれる神を見ることができますように。そして、私たちに意味を与え、永遠のいのちを差し出してくださる方として、イエスを見ることができますように。

