何が起こっているのでしょうか
エルサレムは攻撃を受けていますが、神はどんな代価を払ってもご自分の民を守られます。茂みに身を潜める勇士のように、戦場に陣を張る兵士のように、神はエルサレムの側に立っておられるのです(詩篇 76:2)。アサフは、十八万五千人のアッシリア軍がエルサレムの城壁のすぐ外に陣を敷いたときのことを思い起こしています(イザヤ書 37:33〜36)。勝利など不可能に思えましたが、一夜のうちにアッシリアの矢も剣も盾も、すべて無力にされました(詩篇 76:3)。太陽を見つめる者の目がくらむように、神の守りのことばはアッシリアの兵士たちをことごとく動けなくしたのです。神の民に害を加えようとした者は皆、死にました(詩篇 76:4〜6)。たとえエルサレムが攻撃を受けていても、神の民が恐れなければならない相手は、神ご自身以外に誰もいないのです(詩篇 76:7〜8)。
しかし神は、今エルサレムに住む人々だけを守ろうとしておられるのではありません。敵に苦しめられているすべての人を、神は守られます(詩篇 76:9)。神が抑圧や脅しに対して怒りを燃やされるのは、それがエルサレムに向けられたときだけではなく、周囲のすべての地と民に向けられたときも同じなのです(詩篇 76:10)。そして、神が創造されたもののどれかに害を加えようとする王は、自分に何が起こるかを恐れるべきでしょう。神は全地を守られる方であり、権力を持つ者に残された道は二つしかありません。贈り物を携えて神に忠誠を誓うか、それとも神にその王国を倒され、その支配の下で苦しんでいた人々が解放されるかです(詩篇 76:11〜12)。
福音はどこにあるのでしょうか
神がご自分の民を守られるさまは、太陽のようです。そして聖書の最後の数章では、地上のすべての支配者が、光に満ちたエルサレムに住まわれる神のもとに貢ぎ物を携えて来ると語られています(ヨハネの黙示録 21:23)。その光はあまりに明るく力強いので、この新しいエルサレムの門は閉じられる必要がまったくありません。それは完全な宇宙的平和のしるしです。門を閉じる必要がないのは、攻め入る敵がもう一人も残っていないからです(ヨハネの黙示録 19:15)。しかも神の光は、軍隊を動けなくするのではなく、地上のすべての王を引き寄せ、苦しむ者を守られる神の前にへりくだって身をかがめさせるのです。
イエスは地上におられたとき、苦しんでいる人々に向かって、ご自分は世の光であると告げられました(ヨハネの福音書 8:12)。つまりイエスこそ地を守られる方であり、私たちにも道は二つしかないということです。神と共に立ち、苦しむ者の側に立つのか。それとも、他者にどれほど害を与えようとかまわず、自分の王国のために生きるのか。イエスの光に加わることもできますし、いつまでも暗闇の中にとどまることもできるのです。
しかし、イエスに従おうとする人は誰も、暗闇の中を歩む必要がありません(ヨハネの福音書 8:12)。イエスが来られたのは、敵と戦う勇士となるためではなく、敵に平和をもたらすためでした(マタイの福音書 10:34)。イエスは目のくらむような神の光ですが、従おうとするすべての人を、宇宙的な平和に満ちた新しい時代へと導こうとしておられます。ですから、イエスに忠誠を誓ってみましょう。自分の人生を贈り物としてお献げしましょう。そして、かつては神の敵であった私たちを、苦しめ害を加えようとするあらゆる敵から神が守ってくださるさまを、目を覚まして見ていきましょう。
ご自身で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、恐れるにふさわしい神を見ることができるよう祈ります。そして、苦しむ者を守り、高ぶる者を倒すために来られる神の光として、イエスを見上げることができますように。

