ここで何が起こっているのでしょうか
ラバンの策略から逃れたヤコブですが、今度は自分が最初に欺いた相手、兄エサウと向き合わなければなりません(創世記 32:6〜7)。ヤコブが知る限り、エサウは自分を殺そうとしていました。
ヤコブは必死に神の守りを祈り求めます(創世記 32:11)。それでもなお策を巡らせ、対面の前に兄の心をやわらげようと、次々と贈り物を送り出します。
その夜、ヤコブが向き合うことになったのはエサウではなく、神ご自身でした。名の明かされない一人の人が、夜明けまでヤコブと格闘します(創世記 32:24)。ヤコブは生涯を通して、格闘し、策を練り、祝福をつかみ取ろうとしてきました。しかし今度ばかりは、小細工はいっさいありません。ただ神にすがりつき、祝福されるまで離すまいとするのです(創世記 32:26)。
神はヤコブを契約の祝福をもって祝福し、新しい名を与えられます。「神と格闘する者」を意味する、イスラエルという名です(創世記 32:28)。この新しいアイデンティティは、ヤコブと、その子孫がこれからもずっとそうであり続ける姿を示しています。人と、罪と、そして神と格闘する民でありながら、自分の失敗によってではなく、神の祝福によって定められる民なのです。
翌日、ヤコブはエサウに会いに出て行きます。贈り物を先に行かせましたが、いよいよ兄の姿を目にしたとき、エサウのほうが走り寄って抱きしめてくれたのでした(創世記 33:4)。ヤコブを救ったのは策略ではありませんでした。神はすでに、エサウの心をやわらげることによって、その祈りに答えておられたのです(創世記 33:8〜9)。
福音はどこにあるのでしょうか
策略と格闘、そして和解というヤコブの物語は、私たち自身の物語でもあります。
ヤコブのように、私たちもしばしば神に近づくための作戦を考え出します。次々と並べる善い行い、言い訳、あるいは自分が受け入れられるべき理由づけ。けれどもパウロが語るように、私たちが救われるのは行いによるのではなく、恵みによるのです(エペソ人への手紙 2:8〜9)。
良い知らせは、イエスがすでに私たちの先を歩んでくださったということです。イエスは私たちに代わって、罪と死と暗闇の力と格闘してくださいました。その戦いで傷を負われましたが、勝利して復活し、私たちのためにいのちの祝福を勝ち取ってくださったのです(ペテロの手紙Ⅰ 3:18)。策略によって祝福を手にしたヤコブとは違い、イエスはまことの神の子として、その祝福を惜しみなく分け与えてくださいます。
イエスによって、私たちは「神に代価を払う」必要がなくなりました。エサウがヤコブを抱きしめたように、神は両手を広げて私たちを迎えてくださいます。キリストにあって、私たちは和解にあずかり、新しいアイデンティティを与えられ、決して自分では得られないいのちをもって祝福されているのです(ローマ人への手紙 8:34)。
ご自身の目で確かめてみましょう
私たちの弱さのただ中で出会ってくださり、イエスにあって私たちのために格闘し、和解と祝福をもって抱きしめてくださる神を見る目を、聖霊が与えてくださるように祈ります。

