何が起こっているのでしょうか
バビロンの脅威がユダ王国に迫るなか、預言者エレミヤは、降伏することだけが唯一の希望だと同胞に告げます。しかしユダの宗教指導者たちにとって、それはよく見ても非国民の言葉、悪く言えば信仰の否定に聞こえました。何しろ、この土地は神が与えてくださったものなのです。王家と宗教的な指導層が「神から与えられた国」のために戦おうと備えていたそのとき、エレミヤは彼らに反対する公然の訴えを始めます。どれほど大きな軍勢を集めたとしても、神の民が自分たちの国の存続を神に委ね、再び神の律法に従うようにならなければ、この国は滅びる——そう語るのです(エレミヤ書 26:1〜6)。宗教的指導層はこの告発に激怒し、エレミヤを町の裁判の場へ引きずり出します。王と神の民の両方に対する裏切り者だと訴え、その場での処刑を要求しました(エレミヤ書 26:7〜11)。エレミヤは自らを弁護し、神が語れと命じられたことを語っただけの自分を罪に定める権利は彼らにはない、と言います。しかも、ユダの滅びは避けられない運命ではありません。国の守りを神に委ね、今頼みにしている同盟や、賛美をささげている偶像を捨てるなら、神はこの都を守ってくださるのです(エレミヤ書 26:12〜13)。この弁明を受けて裁判の場は二つに割れ、ユダの王はエレミヤを釈放します(エレミヤ書 26:16〜24)。
ところが、その後の十年間、ユダの指導者たちはエレミヤの警告に耳を傾けませんでした。やがてエレミヤが語った滅びの預言が現実になり始めます。ユダ最後の王ゼデキヤは、かろうじて王座を保ちながら、圧迫する者に反逆しようと考えます。しかしエレミヤは家畜のくびきを自分の背に負い、ゼデキヤの王座の間へ歩み入って、神のしもべであるバビロンの王ネブカドネツァルに服従し、身を明け渡しなさいと告げます(エレミヤ書 27:1〜7)。バビロンの支配というくびきを受け入れることを拒むなら、主人に逆らうラバのように罰を受けることになります(エレミヤ書 27:8〜9)。しかし、神の民が神に信頼し、一時的にバビロンに身を明け渡すことを選ぶなら、神はやがて彼らをこの地に帰らせると約束してくださるのです(エレミヤ書 27:10〜11)。
けれども、このことばもまた、ユダの宗教的な思い込みと政治的な誇りに真正面からぶつかりました。預言者ハナニヤはエレミヤの首からくびきを取り上げ、地に打ちつけて砕き、バビロンのくびきは二年のうちに折られると宣言します(エレミヤ書 28:1〜11)。しかしエレミヤは、どちらが真実を語っているかは歴史が証明すると言います。ハナニヤは偽りを語る者なのです。ユダが服従しないなら、バビロンのくびきはさらに重くなり、わずかに残っているものまで奪い去られてしまいます(エレミヤ書 27:17〜21、エレミヤ書 28:12〜17)。ユダに残された唯一の希望は、身を明け渡し、追放を受け入れ、神がいつの日か民を故郷へ帰し、失ったものを回復してくださると信じることでした(エレミヤ書 27:22)。
福音はどこにあるのでしょうか
ユダの指導者たちのふるまいは、彼らがずっと以前から神への信頼を捨てていたことを露わにしています。ユダは追放されなければなりません。神の民は、心の中で既に起こっていた霊的な追放を、国家として身に受けなければならないのです。しかし神は、まさにその追放の中で民の回復を始めると言われます。そして国の死を通して、壊れてしまった信頼を神が修復してくださるのです。
けれども、それが実現するのは何世紀も後のことでした。イエスという、もうひとりの預言者が現れ、宗教的指導層には冒瀆と聞こえる、よく似たことばを語られたのです。イエスは弟子たちに、帝国の権力のくびきではなく、ご自身が携えて来られた優しいくびきに信頼し、身を委ねるように告げられました(マタイの福音書 11:29〜30)。イエスの優しいくびきは、政治的な追放ではなく、死のくびきです。エレミヤの時代に、バビロンに身を明け渡せと言われることがつまずきであったのと同じように、イエスのことばも私たちには耳障りに響きます。いのちを見いだしたいなら、いのちを失わなければならない、と言われるのです。そして生きたいと願うなら、重い十字架を自分の背に負わなければなりません(マタイの福音書 16:24〜26)。エレミヤと同じようにイエスも、神の回復を経験するためには死と追放に身を委ねなければならないと語られました。けれども私たちは、この死と追放をひとりで担うのではなく、イエスとともに担うのです。私たちは十字架でイエスとともに死に、神から引き離されて追放の身にある自分を死に渡します。イエスがこの死を負って先を歩んでくださったからこそ、その重荷は軽いのです。十字架をひとりで背負うのではないと、私たちは知っているからです。
そして、イエスもエレミヤも約束したとおり、死と追放に身を委ねることはいのちをもたらしました。イエスは死者の中からよみがえられたのです(マルコの福音書 16:9)。その復活において、エレミヤがユダに約束した回復が現実となりました。イエスの優しい死のくびきを分かち合う者はみな、永遠に、その復活のいのちにあずかると約束されているのです(ローマ人への手紙 6:3〜4)。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、ご自身のくびきを負うよう招いてくださる神を見ることができますようにと祈ります。そして、死の後にさえご自分の民を回復してくださる方として、イエスを仰ぐことができますように。


