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エレミヤ書 4:5〜6:30

ただひとりの正しい人

エレミヤ書 4:5〜6:30には、神の民が赦され、さばきを免れ、神の愛による備えを受けるための、ただひとりの正しい人としてのイエスが示されています。

ここでは何が起こっているのでしょうか

ユダは、自分たちの国を守り養ってくださる神に信頼するのではなく、外国の神々や王たちに忠誠を尽くす道を選びました。そこで神は、軍隊がユダの国境に侵入すると告げるよう、エレミヤに命じられます(エレミヤ書 4:5〜17)。神の民が神を守り手として望まないのなら、神は彼らの願いどおりにされるのです。どれほど心を痛めながらも、神は彼らを、彼ら自身が選んだ勢力の手にゆだねられます(エレミヤ書 4:18〜22)。こうして、神の民が知っていた世界は滅び去るのです(エレミヤ書 4:23〜26)。

けれども神はエレミヤに、ユダ全体の中でたったひとりでも、聞き従おうとする者を見つけることができるなら、来ようとしているさばきをとどめようと語られます(エレミヤ書 5:1)。そこでエレミヤはイスラエルの宗教指導者たちのところへ行きます。神のことばと律法に身を献げている人々の中なら、神の契約の慈悲を回復させる誠実な代表者が見つかるかもしれないと期待したのです。しかし、ひとりもいませんでした。ユダの指導者たちは、自分たちが神の命令を破っていることを知りながら、それを気にもかけず、神が自分たちをさばくとは信じていないのです(エレミヤ書 5:2〜6)。エレミヤはすぐに、ユダが神への忠実さをすべて捨て去り、互いへの愛さえ失っていることを知ります。ユダに満ちているのは偶像礼拝だけではありません。上から下まで、悪と不正義、搾取と欺きがはびこっているのです(エレミヤ書 5:26〜31)。エレミヤは戦慄しながら気づきます。ユダにはもう誠実な人がひとりも残っておらず、迫り来る追放を止めるものは何もないのだ、と(エレミヤ書 5:7〜13)。

契約を守る誠実な者をひとりも見いだせなかったため、神はエレミヤに、預言のすべてが必ず実現すると告げられます。やがて軍隊が神の民を覆い、その富を奪い去り、彼らを追放へと引きずって行くのです(エレミヤ書 5:14〜25、6:22〜30)。エルサレムの抑圧と暴力はあまりにひどく、神は攻め寄せる軍隊に、眠ることもせずに、その悪の上に新たな一日が明ける前に都を打ち倒せと命じられます(エレミヤ書 6:1〜9)。それでもユダの心は頑なで、神が「逃げてエルサレムから抜け出しなさい」と言われても、耳を貸そうとしません(エレミヤ書 6:10〜21)。しかし、このような頑固さと不誠実、悪にもかかわらず、神は、ご自分の民への愛が完全に尽き果てたわけではないと語られます。追放を生き延びる者が残され、いつの日か再び神の守りが差し出されると約束してくださるのです(エレミヤ書 4:27、5:18)。

福音はどこにあるのでしょうか

神はエレミヤに、神に聞き従う誠実な人をたったひとりでも見つけられたなら、ユダの滅びをとどめようと言われました。しかしエレミヤは見つけられませんでした。悲しいことに、今もあまり変わっていません。聖書は一貫して、人間が神の意図された誠実な契約の相手として生きることに失敗してきたと告げています(ローマ人への手紙 3:23)。もし神の民の未来が、私たちの中に真に誠実な人をひとり見つけ出すことにかかっているのなら、追放と喪失は避けられないように思えます。

けれども、人間の慢性的な頑固さと不誠実にもかかわらず、神は愛をもって行動されました。神は御子イエスを、人としてお生まれになるようにして遣わされました。神の民には決してできなかったしかたで、契約に誠実に生きてくださるためです(ヨハネの福音書 3:16、エペソ人への手紙 2:1〜5)。イエスは、ただひとりの誠実なイスラエル人、ただひとりのまことの人となられ、この方を通して神は民を回復してくださるのです。イエスは神に聞き、完全に信頼し、神のご計画に対して揺るがぬ忠誠をもって生きられました(ヨハネの福音書 5:19、ルカの福音書 22:42)。イエスこそ、エレミヤが探し求めていた誠実な代表者であり、この方を通して神は契約を新たにし、民を回復されるのです。

イエスの死は、神の民が——そして諸国の民が——自分たちを救うために遣わされたただひとりの誠実な人に何をするのかを示しています。イエスは拒まれ、都の外に追い出され、死に渡されました。エレミヤがユダに警告した追放と滅びの中に、完全に入って行かれたのです(ヨハネの福音書 19:16〜17)。イエスはイスラエルの追放を避けようとはなさらず、その最も深いところまで担ってくださいました。しかし神は、イエスを墓の中に見捨てはされませんでした。イエスを死者の中からよみがえらせることによって、神は宣言されたのです。追放が最後のことばではなく、回復が始まった、と(ローマ人への手紙 8:1)。

イエスが誠実に神の民の追放の中へ入り、復活によってそこから出て来られたからこそ、この方に結ばれるすべての人に、今、赦しと回復が差し出されています。イエスにあって、神の民は追放から連れ戻され、新たにされた契約の交わりに迎え入れられ、神の変わらぬ臨在と備えを約束されるのです。イエスは私たちの誠実な代表者——神の約束が守られ、この方を通して神の民が回復される、ただひとりの正しい人なのです。

ご自分の目で確かめてみましょう

ですから、どうか聖霊が目を開いてくださり、契約に誠実であり続けてくださる神を見ることができますように、と祈ります。そして、神がご自分の民を回復し、追放から私たちを家へと連れ帰ってくださる、そのただひとりの誠実な人としてのイエスを仰ぎ見ることができますように。

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