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デボーション

エゼキエル書 22〜23章

エルサレムは有罪

エゼキエル書 22〜23章では、エゼキエルと同じように、イエスもまた検察官のようにエルサレムに近づき、その不正、偶像礼拝、悪に対して、都とその指導者たちをさばかれたことが示されています。

何が起こっているのでしょうか

神はイスラエル王国を選び、世界に豊かな実りをもたらし、やがてすべての人が神を賛美するようになることを願われました(創世記 12:1〜3)。ところがイスラエルはその招きを捨て、流血と偶像礼拝の道を選んでしまいます。そこで神はエゼキエルに、ご自身の検察官として立ち、全世界を舞台にした裁判の場でイスラエルの首都エルサレムを有罪と宣告するよう告げられます(エゼキエル書 22:1〜5)。証拠はこうです。イスラエルの王たちは自分の権力を守るために人を殺してきました。寄留者、孤児、やもめは制度的に虐げられています。中傷、近親相姦、不倫、賄賂、ゆすりが社会の隅々にまで広がっています(エゼキエル書 22:6〜12)。これらの罪状に対して、検察官エゼキエルは死刑を求刑します。イスラエルは故郷から追放され、本来祝福すべきだった諸国民の間に、恥を負って散らされるべきなのです(エゼキエル書 22:13〜16)。

それでも神は、イスラエルを通して世界に豊かな実りをもたらすというご計画を捨てておられません。神にとって追放は、何よりもまず刑罰ではなく、より良い未来を望んでの精錬なのです。鍛冶職人が炉で銀を溶かして純化するように、神はエルサレムをご自分のるつぼとされます。城壁の内側で、民の暴虐と偶像礼拝は焼き尽くされます。そして残るのは、神の使命を担っていく備えのできた、清められた民です(エゼキエル書 22:17〜22)。今のところ、イスラエルの中にいる者は皆有罪であり、この清めの火の危険にさらされています(エゼキエル書 22:30〜31)。イスラエルは陰謀を企てる王たち、民を踏みつける祭司たち、虐げる指導者たち、偽りを語る預言者たち、盗みを働く民で満ちています(エゼキエル書 22:23〜29)。しかし神は、やがてイスラエルが世界における招きと使命を回復すると約束されます。来ようとしている追放は、刑罰として避けるべきものではなく、清めとして受け入れるべきものなのです。神は名匠の鍛冶職人であり、その民を最も純度の高い銀に仕上げてくださいます。 

イスラエルに自分たちの罪の重さと、追放を受け入れる必要とを衝撃をもって知らせるため、エゼキエルは神の民を二人の遊女の姉妹として、きわめて生々しい描写で語ります(エゼキエル書 23:1〜4)。細かなところはご自分で読んでみてください。ただ、姉妹はどちらも、通りかかる兵士なら誰にでも触れられ、愛され、抱かれたいと渇望する女として描かれています(エゼキエル書 23:5〜8, 11〜21)。その情欲は、世界を祝福するという招きを拒んだ神の民が犯した政治的・宗教的・道徳的な妥協を表しています。神のさばきはこうです。イスラエルがそれほど他の国々と親密になりたいのなら、望むものをそのまま与えよう、と。自らを委ねたその同じ国々が、イスラエルの町々に押し入り、すべてを剝ぎ取り、遊女となり果てたイスラエルの姿をあらわにするのです(エゼキエル書 23:9〜10, 22〜45)。ここでもまたエゼキエルはイスラエルを有罪と宣告し、ここでもまた死刑を求めるのです(エゼキエル書 23:46〜47)。しかしエゼキエルは、この死刑判決が最終的なものではないことも知っています。イスラエルの死と追放は、より高い目的に仕えているのです。追放は神の民を清め、やがてイスラエルは世界に豊かな実りをもたらすという招きを取り戻します(エゼキエル書 23:48〜49)。 

福音はどこにあるのでしょうか

この世界は壊れ、悪に満ち、荒々しい場所です。イスラエルが与えるために選ばれながら果たせなかった祝福と豊かな実りを、世界は切実に必要としています。けれどもエゼキエルは、追放と国家の死というるつぼを経た後、神の民は再び立ち上がり、招きを取り戻し、ついに世界へ豊かな実りをもたらすと預言しました。しかし、国家の死と追放という炉だけでは、神の民を完全に清め、精錬するには足りませんでした。バビロンの侵攻の後も、イスラエルは悪に満ちたままでした。そこで神は、神なる鍛冶職人として、もう一度イスラエルのもとに来て、イエスにおいてついにご自分の民を清めようと決意されたのです。

検察官エゼキエルと同じように、イエスもエルサレムに近づき、その不正、偶像礼拝、悪に対して、都とその指導者たちをさばかれました(マタイの福音書 23:1〜36、マルコの福音書 11:15〜18)。イエスは、神の民が清められる道はただ一つ、イスラエルの腐敗した宗教制度が壊され、焼き尽くされることだと預言なさいました(マルコの福音書 13:1〜37)。ところが、この火のような言葉を語りながらも、イエスは、イスラエルの指導者たちに虐げられた.人々——寄留者、孤児、やもめ——こそ、ご自分が備えておられる清められた御国の最初の民となる、と言われたのです(マタイの福音書 5:1〜12)。イエスの働きの中で、遊女たちは神の娘となりました(ルカの福音書 7:37)。悪霊に取りつかれていた人は宣教者となりました(ルカの福音書 8:26〜29)。シモンのような暴力的な革命家も、マタイのような同胞を裏切ったイスラエル人も、共に弟子となりました(マルコの福音書 3:13〜19)。エゼキエルが預言したとおり、イエスはご自分の民を清め、造り変えられたのです。 

エゼキエルは、エルサレムはバビロンの侵攻を通して清められると語りました。だからこそイエスは、ご自分の体がローマの十字架の上で死ぬことを許されたのです。イエスが死なれたのは、ご自分の民のるつぼとなることを望まれたからでした。十字架の上でイエスは、民の汚れ、悪、罪を引き受けられました(コリント人への手紙Ⅱ 5:21)。ご自分の民の悪のゆえに、すべてを剝ぎ取られ、さらしものとされたのです。その体は、民の汚れが焼き尽くされる炉となりました。エルサレムにおいてそうであったように、イエスにあって私たちの悪、偶像礼拝、流血は清められます(ヘブル人への手紙 9:14)。イエスは私たちの悪が精錬される炉となってくださいました。それは私たちが銀のように——尊く、純粋で、祝福の御国に加わり、世界に豊かな実りをもたらす備えのできた者に——なるためです。 

ご自分の目で見てみましょう

聖霊が目を開いてくださり、暴虐と偶像礼拝のゆえにご自分の民をさばかれる神を見ることができますように。そして、私たちが身を投げ入れることのできるるつぼとして、イエスを見ることができますように。

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