何が起こっているのでしょうか
ホセアの最後の預言の中で、預言者はイスラエルのエジプト脱出と、彼らが今置かれている状況とを重ね合わせています。イスラエルをエジプトから救い出したのは、神の大いなる愛にほかならなかった、とホセアは思い起こさせます(ホセア書 11:1)。愛情深い夫のように、神はイスラエルを両腕に抱き、優しさと慈しみをもって導かれました(ホセア書 11:4)。しかし神が愛を注げば注ぐほど、民は神から離れて行ったのです(ホセア書 11:2)。
荒野にいたイスラエルと同じように、ホセアの時代のイスラエルも偶像や金の子牛を造りました。しかもホセアは、イスラエルが偶像にささげたのは動物だけでなく、自分たちの子どもまでもであったと語ります(ホセア書 13:2)。かつてイスラエルは不従順のゆえに四十年間荒野をさまようことになりましたが、今度は自らの反逆のゆえに、神は彼らをアッシリアへの追放の中でさまよわせるのです(ホセア書 11:5)。出エジプト記では、災害はイスラエルの敵を襲い、脱出の道を開きました。しかし今回、災害は神の民を故郷から追い出し、イスラエル自身に襲いかかるのです。
神はもう十分に耐えてこられました(ホセア書 13:11)。そのまなざしからあわれみをことごとく取り去り、死と災害と墓に、その力を尽くすよう呼びかけて言われます。「死よ、おまえの災害はどこにあるのか。墓よ、おまえの滅びはどこにあるのか」(ホセア書 13:14)。しかし神は、イスラエルを永久に滅ぼし尽くすことはなさいません(ホセア書 11:9)。そう考えるだけで、神ご自身の心は激しく揺れ動くのです(ホセア書 11:8)。ですからイスラエルが追放された後、神は残された者たちに帰って来るよう呼びかけられます(ホセア書 11:10)。ホセアはこの書を、イスラエルに悔い改めて主のもとに立ち返るよう訴えかけて閉じます(ホセア書 14:2)。彼らは神に赦しを求め、救いのためにただ神にのみ信頼すべきなのです(ホセア書 14:3)。
福音はどこにあるのでしょうか
マタイは、イエスについての記録の中で、イエスもまた出エジプト記の物語を繰り返しておられることを示しています。そのことを示すために、今日の箇所であるホセア書から引用までしているのです(マタイの福音書 2:15)。けれどもイエスは、不従順に陥って偶像を造るのではなく、エジプトから出て来られたとき、完全に神に従われました。イエスは、本来あるべき姿のイスラエルそのもの、すなわち父を喜ばせる神の子なのです(マタイの福音書 3:17)。しかし、災害が下ったとき、それは神の敵にも、神の民にも向かいませんでした。それは神ご自身に向かったのです。イエスは、私たちが受けるべき刑罰の災害を十字架の上で負ってくださいました。
神がホセアに語られた恐ろしいのろいは、まったく逆のものへと変えられました。使徒パウロはホセア書を引用し、イエスに信頼する者に対して、死も災害も墓も何の力も持たないと語ります。こう書いています。「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」(コリント人への手紙Ⅰ 15:55)。かつて私たちに向けられたのろいが、今では墓そのものへの嘲りの言葉となったのです。イエスにあって、「死は勝利にのまれた」のです(コリント人への手紙Ⅰ 15:54)。今、悔い改めてただイエスに信頼する私たちは、やがて来る死から救われているのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
私たちの受けるべき刑罰に最後の言葉を語らせない神を見上げられるよう、聖霊が目を開いてくださることを祈ります。そして、私たちの刑罰を負い、私たちに対する最後の言葉をいのちとしてくださったお方として、イエスを見つめることができますように。

