何が起こっているのでしょうか
神は、これから起こることを前もって告げることによって、追放されたイスラエルに対し、ご自分が歴史を支配しておられることを証明されます。預言者イザヤは、追放されてバビロンにいる自分の民に、神が彼らを救うためにメシアを遣わそうとしておられると語ります。「メシア」という称号は、本来、イスラエルの王、祭司、預言者、つまり神の選びの民を導くために神が選ばれた指導者たちのために取り分けられていたものでした。ところが、神が選ばれるこのメシアの正体はあまりに衝撃的で、異端と紙一重に思えるほどです。神は、キュロスというペルシアの王をご自分のメシアとすると宣言されるのです(イザヤ書 44:28、45:1)。キュロスは神を認めない異教の王です。それでも神は、あえてこの人物を用いようと選ばれました(イザヤ書 45:4)。将来現れる異教の王が神の民を解放するという主張が実現するとき、神はすべてを支配しておられることを証明されるのです。
神が、起こる前に告げておられたことの一つは、キュロスがバビロンを打ち破り、イスラエルを救い出すという出来事でした(イザヤ書 44:28、45:13)。神はキュロスを用いてバビロンの偶像や魔術、占星術に恥をかかせ、その空しさを暴かれます(イザヤ書 47:1〜15)。しかしキュロスは自分の力でこれを成し遂げるのではなく、彼を選ばれた神によって成し遂げるのです(イザヤ書 45:5)。キュロスが手にする勝利のすべて——自分が戦って得たのではない国々を手に入れ、自分が打ち倒したのではない城門をくぐり、自分が働いて得たのではない戦利品を自分のものとすること——は、神が前もって告げておられたことの成就でした(イザヤ書 45:2〜3)。これは、神以外に神はいないという、キュロスと諸国民に対する神の証しなのです(イザヤ書 45:7〜8、13〜14)。
神はイスラエルの外からメシアを起こすと約束されるだけでなく、イスラエルの外にいる諸国民をも救うと約束されます。しかも、イスラエルに証明されるのと同じ方法で、諸国民に対してもご自分こそがただひとりのまことの神であることを証明されるのです。すなわち、起こる前にこれから起こることを世界に告げられるのです(イザヤ書 45:21)。起こる前に前もって告げることのできる神は、ほかにありません。そして実際にそれを実現できる神も、ほかにはいないのです。諸国民がこのように働かれる神を見るとき、自分たちの偶像礼拝の愚かさに気づき、ただひとり歴史を治めておられるイスラエルの神に立ち返るでしょう(イザヤ書 45:14、18)。神が自分たちの偶像とは比べようもないほど優れた方であると知るとき、すべての膝が神の前にひざまずき、この方こそただひとりの神であると宣言するのです(イザヤ書 45:23〜24)。
神は、すべての人に、偽りの偶像とご自分とを比べてみるようにと求められます(イザヤ書 46:5)。偶像は拝む者の重荷となり、どこへ行くにも運んでもらわなければなりません(イザヤ書 46:1)。しかしイスラエルの神は、その民を抱え上げ、追放の地から運び出してくださるのです(イザヤ書 46:3〜4、11〜13)。偶像は動くこともできず、救うこともできません。けれどもイスラエルの神は、あらゆる時と場所を自由に動かれ、民が追放されるはるか以前から、救いのために彼らのもとへ向かうと約束しておられました(イザヤ書 45:15〜25、46:10、13)。神は、これから起こることを起こる前に世界に告げることによって、ご自分が支配しておられることを証明されるのです。
福音はどこにあるのでしょうか
神の支配を示す究極の証拠は、ご自分のメシアであるキュロスを約束されたことではなく、まことの、そして最後のメシアであるイエスを約束されたことにありました。
イスラエルの神と諸国民の偶像が比べものにならなかったように、イエスもまた比べようのない方です。偶像は動くことも、語ることも、触れることも、行動することもできません。しかしイエスは、追放された民のもとへと歩み寄られました。イエスはいのちと真理のことばを語られました(ヨハネの福音書 6:63、68)。イエスは病んでいる人に触れ、いやされました(マルコの福音書 1:41〜42)。イエスは慈悲と優しさをもって行動されました。偶像は、それを造った者——人間——によっていのちを与えられます。しかし、すべての人間を造られたイエスは、ご自分のいのちを捨ててくださったのです(コリント人への手紙Ⅱ 5:15)。
ご自分が歴史を支配しておられることを示すために、イエスはそれが起こる前に、ご自分がどのように死ぬことになるのかを弟子たちに予告されました(マタイの福音書 16:21)。イスラエルの追放と同じように、イエスの十字架の死も偶然ではなく、神があらかじめ定めておられた計画の一部だったのです(使徒の働き 2:23)。創造の初めから、あらゆる預言、約束、ひな型、たとえ話は、私たちを追放から救うために死んでよみがえられる最後のメシア、イエスを指し示していました(創世記 3:15、ルカの福音書 24:25〜26)。イスラエルは、メシアであるキュロスが来る数年前に神が約束してくださったからこそ、神に信頼することができました。私たちはなおいっそう神に信頼できます。なぜなら神は、メシアであるイエスを世界の始まりから約束しておられたからです。
イエス以外の何かに信頼を置くことは、偶像に頼るのと同じで、結局その重さをすべて自分で背負うことになってしまいます。しかしイエスは、その重荷をご自分の身に背負ってくださいます。私たちは偶像を担ぎますが、イエスは私たちを担いでくださるのです。イエスは、動くこともない、いのちのない偶像でもなく、遠く離れた無力な神でもありません。歴史を支配し、私たちのために死ぬためにすべてを取り計らわれた神なのです。だからこそ、すべての膝がかがみ、すべての口がイエスこそただひとりのまことの神であると告白するのです(ピリピ人への手紙 2:8〜11)。
ご自身の目で確かめてみましょう
初めから終わりを告げられる神を見ることができるように、聖霊が目を開いてくださることを祈ります。そして、世界が始まる前からあなたを救う計画を立てておられたただひとりのまことの神、イエスに信頼できるように祈ります。

