何が起こっているのでしょうか
この詩篇は、恵みを求める必死の訴えです。ダビデは、神が自分を懲らしめておられるために苦しんでいるのだと考えています(詩篇 6:1)。夜ごとに泣き明かし、枕は涙でぬれています(詩篇 6:6)。目の前の問題から救い出してほしいと願い(詩篇 6:4)、そのためにダビデは神の変わることのない愛に訴えます(詩篇 6:4)。
神の変わることのない愛とは、単に人に向けられた優しい感情ではありません。それは神の契約の愛を指しています。すでに交わされた約束に基づく忠実な愛——夫と妻の間の愛のような愛なのです。
ダビデは、自分が死ぬなら、この苦境において神の変わることのない愛そのものが問われることになると考えています。というのも、神がイスラエルに与えられた約束の一部が、ダビデ自身の身の安全と結びついていたからです(サムエル記Ⅱ 7:12)。ダビデの子孫の一人が、イスラエルの王座に永遠に座るとされていました(サムエル記Ⅱ 7:16)。もし神が動いてくださらなければ、その約束は果たされないままになるように見えてしまいます。
そこでダビデは、神がお受けになるべき賛美を根拠に訴えます。もし自分が死に引き渡されるなら、神を賛美することはできなくなるからです(詩篇 6:5)。
ダビデは、自分に害を加えようとするすべての者に警告を発します(詩篇 6:8)。彼らは今すぐにもひどく苦しみ、恥を受けることになるのだから、自分の前から去るようにと告げるのです。神はその慈悲によって、ダビデの祈りを聞いてくださいました(詩篇 6:9)。
この新たにされた確信は、おそらく奇跡的な身体的な出来事から来たのではなく、霊的な出来事から来たものでしょう。ダビデの苦しめられた魂が慰められたのは、神がその祈りを聞き、間もなく救いに来てくださるからです(詩篇 6:10)。これはダビデが明るいことを考えようとしたというのではなく、望みを失った心に希望を与える神の奇跡的なみわざなのです。
福音はどこにあるのでしょうか
物事がうまくいかなくなると、神が自分を罰しておられるのだと考えてしまいがちです。自分の経験こそ、神が自分に敵対しておられる証拠のように感じられ、絶望しか残されていないように思えます。しかしダビデは、ただ「主よ、いつまでですか」と叫ぶだけではありません。自分の苦しみは神の愛と栄光に関わる問題であり、神がそれに応えてくださらなければならないと語るのです。ダビデのように、私たちも、自分の苦しみの中で神の愛と栄光が問われていることを、神に思い起こしていただきましょう。この詩篇にはダビデの祈りへの答えは記されていませんが、究極的にはその祈りはイエスにおいて答えられています。
イエスは十字架に向かわれるとき、このダビデのことばを用いて、ご自身の内なる苦悶を言い表されました(ヨハネの福音書 12:27)。しかしダビデとは違い、イエスはご自身のいのちを助け出してくださいとは願われません。むしろ、愛のゆえに自ら進んで十字架へ向かわれるのです(ヨハネの福音書 3:16)。また、墓に下ることは神の栄光を奪うことになると言ったダビデとは違い、イエスは十字架で死ぬことこそが御名に栄光をもたらすと言われます(ヨハネの福音書 12:28)。
イエスが十字架に向かわれたとき、ダビデが自分は負っていると感じていた神の怒りを、イエスは実際に負われました。しかしここに、神がその変わることのない愛のためにどこまでしてくださるかが示されています。神は、墓にまで下ることさえ惜しまれないのです。
しかも死は、ダビデが恐れたように神への賛美をすべて消し去ることはありませんでした(詩篇 6:5)。かえって、イエスが墓に下り、そしてよみがえられたからこそ、再び来られるとき、すべての膝がかがめられ、神に賛美をささげるのです(ピリピ人への手紙 2:10)。
苦しみの中で、私たちは神の変わることのない愛に訴えることができます。神はいつも福音をもって答えてくださるからです。ダビデのように、私たちも誠実に、大胆に、神が慈悲深くあってくださること、動いてくださること、救ってくださることを願うことができます。神はすでにイエスにおいて、それを完全に成し遂げてくださったからです。神は私たちを怒りから救い、墓という究極の苦悶から助け出してくださいました。イエスがよみがえられたからこそ、私たちもダビデとともにこう言えるのです。「主は、慈悲を求める私の叫びを聞いてくださった」(詩篇 6:9)。
ご自分の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、愛に満ち、栄光に輝く神を見ることができますようにと祈ります。そして、ご自身の苦しみを通して神の愛と栄光を示してくださった方としてイエスを見つめ、私たちの苦しみの中で慰めを受けることができますように。


