何が起こっているのでしょうか
この詩篇は、神についての壮大な宣言で始まり、同じ宣言で閉じられます。創造されたもののどの片隅にも、神の名の美しさと栄光と力を見出すことができるのです(詩篇 8:1)。神は創造のすべての部分を造り、支え、動かすことに、深く親しく関わっておられます。
ところが続く言葉では、天のはるか高くにある神の栄光に満ちた力と、星や月のはるか下、この地上にある人間のもろい弱さとの間に、緊張が見えてきます(詩篇 8:3)。
2節はその緊張をさらに深めます。神の力は、赤ん坊の口から出るあどけない声や片言のような、小さく無力なものを通しても現されるというのです(詩篇 8:2)。
ダビデはこうまで言います。「人とは何者なのでしょう。あなたが心にかけてくださるとは」(詩篇 8:4)。詩的な言葉で、ダビデは「なぜ神は私たちを心にかけてくださるのでしょうか」と問うているのです。
ダビデは創世記 1:26を思い巡らし、神が人を神のかたちに創造し、栄光と誉れの冠を授けてくださったことを思い起こします(詩篇 8:5)。ここにもう一つの大きな緊張があります。天の上を治める全地の王が、ご自分の造られた者を王としてくださったのです。そしてすべての王と同じように、領地と権威をお与えになりました(創世記 1:28)。ダビデは、エデンの園でアダムに語られた神のことば、すなわちすべての生き物を治めるようになるという言葉を繰り返しています(詩篇 8:6)。
偉大な神が、もろく地上的な人間をこれほど心にかけてくださる——そう思い巡らすうちに、ダビデは神への賛美へと導かれていきます。
福音はどこにあるのでしょうか
新約聖書がこの詩篇を引用するとき、天と地の途方もない隔たりや、神と人との隔たりについて語ってはいません。語られているのは、天が地に下り、神がイエスという一人の人となられたということなのです(ヘブル人への手紙 2:6)。
私たちを神のかたちに造られた神が、私たちのかたちに造られたのです。神は私たちを心にかけてくださっただけでなく、私たちと同じようになってくださいました。神の力そのものであるお方が、文字どおり一人の赤ん坊となられたのです(マタイの福音書 1:23)。
ヘブル人への手紙 2:9はこの詩篇を引用して、それがイエスについての言葉であると告げています。「ただ、しばらくの間、御使いよりも低くされていたイエスのことは見ています。それは、神の恵みによってすべての人のために死を味わわれるためであり、死の苦しみを受けられたからこそ、今、栄光と誉れの冠を受けておられるのです。」
天のはるか上で永遠に栄光のうちに生きておられる神が、この地上で必ず死ぬ者たちのために、死を味わってくださいました。イエスにおいて私たちは、永遠に生きておられる神が、死んでいくもろい人間をどれほど心にかけておられるかを見るのです。永遠の神が、私たちのもろいかたちのうちに死んでくださり、私たちに永遠のいのちを与えてくださいました。
イエスはご自分の栄光と誉れと冠を塵の中に置いてくださいました。それは、私たちが高く上げられ、引き上げられるためだったのです。ですから私たちも、この詩篇でダビデとともに、驚きをこめてこう言えるのではないでしょうか。「人とは何者なのでしょう。あなたが心にかけてくださるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたが死んでくださるとは。」
ご自身の目で見てみましょう
聖霊が目を開いてくださり、すべての力と権能を持ちながらも私たちを愛し、心にかけてくださる神を見ることができるよう祈ります。そして、イエスこそ、天から降りて来られ、私たちに代わって死を味わうという、これ以上にない大きな方法で、私たちを心にかけてくださるその思いを示してくださったお方であることを、見ることができますように。


