ここで何が起こっているのでしょうか
詩篇 118篇は、昔から過越の祭で歌われてきました。この年ごとの祭りのたびに、神の民は、神の愛と救いを共に体験してきた歩みを思い起こしました(出エジプト記 12:17)。エジプトで悪しき敵に囲まれていたとき、神は彼らの隠れ家であり、救い出す方でした。周囲の悪しき国々という海の中へ捨てられ、追放されたときも、神は彼らを故郷エルサレムと神殿へと連れ帰ってくださいました(エズラ記 1:5)。だからこそ、さまざまな民から成る合唱が、良くしてくださった神に感謝を歌うのです(詩篇 118:2〜4)。イスラエル人も、祭司たちも、偽の神々を捨ててイスラエルの神を賛美する者たちも、共に祝います。自分たちの物語は、神の尽きることのない愛に始まり、その愛に終わるのだ、と(詩篇 118:1、29)。
神は捨てられた者を救い、高く上げてくださいます。これは常に、イスラエルの物語でした。そして民の物語を代表する者として、イスラエルの王の声が合唱の上に響き渡ります。苦しみのただ中で、滅ぼされかねないほど悪しき敵に囲まれていましたが、神は王を死から救い出し、勝利を与えてくださいます(詩篇 118:5、7)。神の力を身にまとった王は、蜂のように群がる悪の勢力を打ち倒します(詩篇 118:10〜12)。神が捨てられた者を高く上げてくださるのですから、どんな敵も立ち向かうことはできません(詩篇 118:6、8〜9)。そして神が王を救われたことは、神の民すべての祝いとなるのです(詩篇 118:15〜16)。
勝利の行列が、かつて捨てられた王を神殿の門へ、神の御前へと導いていきます(詩篇 118:19〜21)。ここで賛美する人々の行列は、拒絶を救いへと変えてしまう神の力に驚嘆します。「建てる者たちが捨てた石が、今や建物の最も重要な石となった」と歌うのです(詩篇 118:22〜23)。かつて投げ捨てられた王が、神の大いなる救いの日に回復されました。神がイスラエルを代表する者を回復してくださったからこそ、神の民すべてがこの希望を分け合うことができます(詩篇 118:24〜26)。神は必ず自分たちを救い、尽きることのない愛によって神殿の御前へと迎えてくださる——そう信頼し、歌うことができるのです(詩篇 118:27〜29)。
福音はどこにあるのでしょうか
それから何世紀も後、過越の祭の週に、イエスが勝利の王としてエルサレムに入城されたとき、詩篇 118篇のことばが街路に響き渡りました(マタイの福音書 21:9)。ところが、自分たちの王を迎え入れるはずだった人々こそが、その王を拒む者となっていくのです。イスラエルの物語を繰り返すように、イエスも拒絶を受け、それでも敵の手から神によって救い出されることになります。
エルサレムの神殿に入られると、宗教指導者たちはイエスに詰め寄り、その王としての権威に異を唱えます。そこでイエスは詩篇 118篇を引用されました。建てる者たちが、建物の最も重要な石を捨ててしまう、というあの箇所です。イエスを拒むことは、神が選ばれた王を拒むことなのです(マタイの福音書 21:40〜42)。イエスこそ、神が建てておられる神の国の土台だからです。これに宗教指導者たちは激しく怒り、ついにはイエスが語られたとおり、そのイエスを拒むのです(マタイの福音書 21:43〜46)。彼らはイエスを捕らえ、都の外で十字架につけて殺してしまいました。神が選ばれた王が、悪しき敵に囲まれ、ご自分の民に拒まれたのです。
けれども、王として拒まれ、不要な石のように投げ捨てられたそのことが、かえって民の救いの土台となりました。神は選ばれた王を死から救い出されたのです(使徒の働き 4:10〜12)。イエスは墓からよみがえり、すべての敵を打ち破られました。 神の民がイエスを拒んだにもかかわらず、神の尽きることのない愛は彼らを拒みませんでした。イエスは、敵の手から私たちを救い出し、ご自身が拒まれ犠牲となることによって、民を神の御前へと連れ戻してくださる王なのです。
イエスは、その民の土台となる石です。神がイエスを天国の最も高い王座に上げられた後、弟子たちはエルサレムでイエスの王としての権威を宣べ伝えました。さまざまな民から成る群衆に向かって、イエスは拒まれ死なれたことによって、天国の最も高い王座に高く上げられたのだと語ったのです(使徒の働き 2:5、23〜33)。また神殿の宗教指導者たちには、イエスを死に定めたあなたがたこそ、イエスを捨てた建てる者たちなのだと告げます。しかし神は、その捨てられた石を神殿の最も重要な石とされました(使徒の働き 4:11)。そして今、あらゆる民から人々が救い出され、イエスがご自身のいのちをもって据えられたその神殿に、石として組み上げられています。私たちこそ、神の臨在が宿る神殿であり、そこで変わることのない神の愛を永遠に味わうのです(ペテロの手紙Ⅰ 2:7)。イスラエルやイエスと同じように拒まれるとき、私たちは実は、神が共に住んでくださるイエスという土台の上に建て上げられているのです。
ご自身の目で見てみましょう
捨てられた者を高く上げてくださる神を見ることができるよう、聖霊が目を開いてくださいますようにお祈りします。 そして、拒まれながらも今や私たちの救いとなられたイエスを、はっきりと見ることができますように。

