ここで何が起こっているのでしょうか?
箴言 1章から9章は、ソロモン王が息子に語った十の講話が連なったもので、その合間に「知恵の女」が時おり割って入ります。知恵の女とは、ソロモンの知恵が形をとって現れ、公然と宣言される姿を表す人物です。知恵の女はイスラエルの民に、自分を追い求め、愚かさとその避けがたい結果を避けるようにと励まします。講話が最初に中断される場面では、知恵の女が大きな都の入口で声を張り上げます。そして都の住民に、内側にある市場や娯楽の誘惑ではなく、自分のうちにある知恵を求めるようにと呼びかけるのです(箴言 1:20〜33)。
都の誘惑ははっきりしています。楽に手に入る金と、楽に手に入る性です。知恵の女も父親も、不正な手段で得た金と軽々しい性的関係は、見た目よりもはるかに高い代償を伴うと警告します。表面上はどちらも魅力的に見えますが、行き着く先はいつも死と滅び、そして混乱です(箴言 1:32、2:18〜19)。楽な金と楽な性は、それが人を愚かさへと引き込むからこそ、避けるべきものなのです。イスラエルもソロモンの息子も、愚かさから救われるためには知恵を求めなければなりません。
ソロモンは何度も繰り返して、知恵を求めるなら必ず見つかると息子に約束します(箴言 2:5、3:13〜15、4:7〜9)。知恵を探し求めるなら、神が与えてくださるのです(箴言 2:6)。知恵は彼を満たし(箴言 1:23)、守り(箴言 2:11)、教え(箴言 2:9)、悪から救い出します(箴言 2:12)。まことの知恵は、悪から逃げ、神へと走り寄るところに見いだされます。アダムとイブは園でこれに失敗しました。だからこそソロモンは、知恵を追い求めることをしばしばエデンへの帰還にたとえるのです(箴言 3:18、4:23)。
アダムとイブが神の知恵を退けたのは、禁じられた実がおいしそうに見えたからでした(楽な性や楽な金がしばしばそう見えるのと同じです)。しかしその結末は死でした。二人は愚かさの約束を信じ、知恵の女の呼びかけに耳を貸しませんでした。だからこそ父親は息子に、自分の勘や理解、自分自身の知恵に頼るのではなく、主を恐れるようにと切に願うのです(箴言 3:5〜7)。主の知恵を求め、それに信頼するのでなければ、私たちはアダムとイブの愚かさを取り消すことも、死を免れることも、神に祝福されることもできません。
福音はどこにあるのでしょうか?
イエスは、ご自分がソロモンよりも知恵ある方であることを、ためらいなく明言されます。信じようとしない大勢の群衆を責め、シェバの女王が「はるばる地の果てから、ソロモンの知恵を聞くために来た。しかし今ここに、ソロモンよりも偉大なものがある」ことを思い起こさせたのです(ルカの福音書 11:31)。イエスは、肉となったソロモンの知恵です。イエスこそ、知恵の女なのです。
ソロモンが息子に教えた教訓は、イエスの働きと教えのうちに公に体現されています。実際、イエスの教えの聞き手としてとりわけ多く登場するのは、不正な手段で富を得た人々や、性的に不道徳な生活をしていた人々です。イエスが彼らに示す知恵とは、ご自身と、ご自身の王国こそが、楽な金や楽な性にまさるということです(マルコの福音書 10:23)。
そして知恵の女が、自分の霊をイスラエルのうちに置くために、彼らに罪から立ち返るよう呼びかけたのと同じように、イエスも同じ約束をしてくださいます(箴言 1:23、ルカの福音書 11:10〜12)。イエスに求め、探し、たたく者はだれでも、知恵の霊を与えられるのです。楽な金と楽な性は、幸せへの最短の道だと偽って約束しますが、イエスの知恵は、銀行口座や人間関係の中に見いだせるどんなものよりも豊かなものが、イエスのうちにあると約束します。イエスは私たちを招いておられます。「心を尽くしてイエスに信頼し、自分の理解に頼らず、何をするにもイエスに従いなさい。そうすれば、あなたの行く道をまっすぐにしてくださる」(箴言 3:5〜6)。
ご自分の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、神の知恵が良い知らせであることが見えるようになりますように。そしてその良き知恵が、イエス・キリストのうちに完全に体現されているのを見ることができますように。

