何が起こっているのでしょうか
箴言のお金についての教えは、最も誤解されやすいものの一つかもしれません。まるでソロモンが「知恵ある人は必ず富み、貧しさはいつも人の愚かさのせいだ」と言っているように聞こえてしまうのです。たとえば、こうあります。
「無精な手は貧しさを招き、勤勉な手は富をもたらす」(箴言 10:4)。
実際、知恵は女性の姿で「わたしのもとには富と名誉、朽ちない財産と繁栄がある」と約束しています(箴言 8:18)。けれども以前にもお話ししたように、箴言は約束ではありません。知恵ある人が富み、愚かな人が貧しくなる、というのはしばしば当てはまりますが、いつでも保証されているわけではないのです。
ソロモンは、貧しさが必ずしも本人の選択によるものではなく、しばしば制度の抜け穴を利用する不正な人々のせいであることを理解しています(箴言 13:23)。また、愚かな人でも富を手にすることがある、とも知っています。もっとも、その富はやがて消え去ると彼は考えていますが(箴言 11:18)。箴言における富と貧しさの理解は、勤勉で知恵ある働きが豊かに報われるという考えを保ちながらも、実に細やかなのです。
しかし、お金について箴言が語る最も興味深いことは、「お金では足りない」ということです。私たちのお金は常に脅かされています。市場の動きであれ、身代金の要求であれ、お金には独特の重荷が伴います(箴言 13:8)。それだけでなく、お金は自然災害からも、株式市場の暴落からも、戦争からも、愛する人の死からも、私たちを救えません(箴言 11:4)。
お金では足りないのですから、富を得ようとして自分をすり減らすのはやめましょう(箴言 23:4〜5)。アグルという知恵ある人は、「貧しさも富も与えないでください」と神に願いました(箴言 30:7)。アグルは、富が多すぎることも、貧しさが深すぎることも、どちらも危険だと見抜いていたのです。富は神を忘れさせやすく、貧しさは神を辱めやすくするのです。
お金について箴言が語ることを、こうまとめると分かりやすいでしょう。「知恵ある人はお金を求めない。知恵ある人は知恵を求める。そして保証はないけれども、お金はしばしばその後についてくる」。
福音はどこにあるのでしょうか
これは、ソロモン自身の物語です。列王記Ⅰ 3章で、ソロモンは選択を与えられます。神から望むものを何でも受け取ることができましたが、権力もお金も選ばず、知恵を選びました。神はその願いに応えて知恵を与え、さらに、求めもしなかった富と権力までも贈られたのです。これこそ、お金に当てはめられた箴言の教え全体です。「知恵を得よ……知恵はあなたを高く上げ、抱きしめれば、あなたに誉れを与える」(箴言 4:7〜8)。
これはイエスの教えでもあります。次の食事さえ心配している群衆に向かって、イエスは「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、それらのものはすべて与えられます」と語られました(マタイの福音書 6:33)。食べ物では足りません。食べ物は常に脅かされています。イエスが人々を満腹にさせても、明日にはまた空腹になるのです。それはまさに、五千人を養った後にイエスが語られたことでした(ヨハネの福音書 6:27)。
食べ物やお金よりも大切なのは、イエスが与えてくださる知恵です。イエスは無限の豊かさと富に満ちたご自分の住まいを離れ、私たちと共に生き、共に御国を造るために来られました(ピリピ人への手紙 2:6、10)。多くの人にとって、神の宮殿での地位を捨てて奴隷のような死を遂げることなど、愚かさにしか見えないでしょう。しかし、すべてを手放すことをいとわなかったイエスのおかげで、その貧しさに現された知恵に信頼する人はだれでも、御国において富む者となるのです(コリント人への手紙Ⅱ 2:8〜9)。
お金も食べ物も足りない、といつも感じられるものです。けれども、イエスの知恵を求め、それを信じるとき、私たちはイエスの復活の富を受け取るのです。
ご自身の目で見てみましょう
聖霊が目を開いてくださり、知恵ある者を富ませてくださる神を見ることができますように。そして、貧しい者を富ませ、愚かな者を知恵ある者としてくださるイエスを見ることができますように。

