ここでは何が起こっているのでしょうか
ここまでの数章で、エゼキエルはイスラエルがバビロンに倒れたことを喜び、弱り果てた彼らにつけ込んだ六つの国の滅びを預言してきました。そして七番目、頂点となる預言で、エジプトもまた滅びると告げます。かつてエジプトは、荒野をさすらう遊牧の民であったイスラエルの民全体を奴隷にしました。今のエジプトのファラオは残虐な行いを重ねただけでなく、自分こそナイル川を造った神だと言い張っていました。そこでエゼキエルは一連の預言を通して、その高慢と、弱みにつけ込む振る舞いと、悪ゆえに、神がバビロンを起こしてエジプトを低くし滅ぼされる、とファラオに語ります。高慢に満ちたファラオは、自分の王国の支配権を主張する凶暴な海の竜として描かれます(エゼキエル書 29:1〜3)。しかしエゼキエルは警告します。神はもりでその竜を水の領域から引き上げ、その竜が何の力も持てない荒野へ投げ捨てられるのです。そこで竜は死に、その死体は野の獣や空の鳥に食われます(エゼキエル書 29:4〜5)。神の目に、ファラオは恐ろしい竜の神ではなく、浜に打ち上げられたくじらに過ぎません。エゼキエルは、四十年のうちにエジプトはかつての帝国の骸のような存在となり、二度と高慢にも強大にもなれないと語ります(エゼキエル書 29:6〜16)。神はバビロンの軍隊を送ってファラオの高慢を打ち砕き、エジプトの富をバビロンの王に与えられます(エゼキエル書 29:17〜20)。エゼキエルは一章を丸ごと費やして、バビロンがエジプトの土地、町々、人々にもたらす徹底的な荒廃を描きます(エゼキエル書 30:1〜19)。救ってくれる同盟国もなく、エジプトは滅び、二度と立ち上がることはありません(エゼキエル書 30:20〜26)。エジプトが国を救う唯一の希望は、自らを低くしてバビロンの力に服することです。
それから約一年後、エゼキエルはファラオの高慢に対する預言をさらに強めます。彼はファラオとエジプトを、エデンの園で最も美しい木、そして当時名高かったレバノンの森で最も高いレバノン杉にたとえます。その太く葉の茂った枝は、焼けつく太陽から逃れようとするすべての動物に陰を与えていました(エゼキエル書 31:1〜9)。ところがその木は、自分の際立った地位を誇るようになり、バビロンはすぐにそれを切り倒します(エゼキエル書 31:10〜13)。切り倒された木は葬られます。これはファラオへの警告であり、他の国々への教訓でもあります(エゼキエル書 31:14〜18)。ファラオとエジプトは、国家的な高慢のゆえに引き倒されるだけでなく、全世界の前で恥をさらすことになるのです。エジプトが一本の木のように投げ倒されたところで、エゼキエルは再び海の竜のたとえを取り上げます(エゼキエル書 32:1〜2)。エジプトの海の竜は、バビロンの軍隊によって荒野に放置され、朽ち果てるのです(エゼキエル書 32:3〜16)。竜のたとえが再び持ち出されるのは、エジプトの没落が必ず実現することを強調するためです。さらにエゼキエルは、エジプトが政治的に恥をさらした後、エジプトの海の竜は陰府に落とされ、そこでは死者たちまでもがその権力の失墜をあざ笑うと語ります(エゼキエル書 32:3〜16、17〜31)。エゼキエルの預言が言いたいことは明白です。エジプトの高慢は怪物のように巨大です。エジプトの王は自分を神だと思い込み、その高慢のゆえに、神はエジプトを低くするためにバビロンを送られたのです。
福音はどこにあるのでしょうか
エゼキエルがエジプトに対するこの預言を記した理由の一つは、バビロンがエルサレムを包囲していた間ずっと、イスラエルの指導者たちがバビロンの攻撃から救ってもらおうとエジプトとの同盟に頼っていたことにあります。エゼキエルはある意味で、高慢な国エジプトを信頼してはならないとイスラエルに警告しているのです。どれほど強大であっても、高ぶる支配者は誰一人、避けようのない神の力の前に立つことはできません。神は必ず、弱い者につけ込み、高慢のうちに神に逆らう者を低くされます。そして海の竜であるファラオを打ち倒されたように、神はすべての高ぶる勢力を打ち倒されます。やがて神は、究極の竜であるサタンをさばくために、究極の竜を討つ者、イエスを送られました。
サタンは聖書の最初のページに竜として、すなわち神の子どもであるアダムとイブを唆し、創造主に対して高慢に反逆させた、ものを言う蛇として現れます(創世記 3:1)。その時から神は、サタンとその子孫がイブとその子らと戦うことになると約束されました。しかし同時に、いつの日かイブの子の一人がサタンの力を永遠に打ち砕くとも約束してくださいました(創世記 3:15)。その時から聖書の物語には、ファラオやヘロデ王のような強大な支配者が次々と現れます。彼らは、竜を砕く者イエスの誕生を阻もうとしてヘブライ人の男の子たちを殺しました。
けれども、彼らはみな失敗しました。イエスはお生まれになり、その生涯は、悪霊を追い出し、サタンの力に縛られた人々を解き放ち、死を打ち破る力によって特徴づけられていました(マタイの福音書 8:16)。神がイブに約束されたとおり、イエスは死者の中からよみがえることによってサタンの力を打ち砕かれました。サタンはイエスを陰府に閉じ込めておくことができなかったのです。この復活において、腐敗した宗教、人を殺す王たち、そして死そのものという怪物的な力は、完全に武装を解かれ、牙を折られました(コロサイ人への手紙 2:15)。イエスこそ究極の竜を討つ者です。その死と復活によって、イエスは私たちの究極の敵の武装を解かれたのです。そしていつの日か、イエスは最後の竜とその同盟者たちを討ち、その死体を鳥に委ねられます(ヨハネの黙示録 19:17〜21)。イエスは竜も、墓も、死そのものも投げ落とし、滅びに至らせます(ヨハネの黙示録 20:10、14)。イエスがすべてを成し終えられるとき、あらゆる高慢と悪は永遠に消え去ります。弱い者につけ込んだ者たちは正義のもとにさばかれます。イスラエルは、滅びに定められた高慢な同盟国よりも、国を救ってくださる神を信頼すべきでした。同じように私たちも、サタンと死を打ち破り、この世界を正しく回復させる力を持つ、ただひとりの方に信頼を置きたいものです。
ご自身の目で確かめてみましょう
高ぶる者を必ず低くされる神を見る目が、聖霊によって開かれますようにお祈りします。そして、すべての高ぶる勢力を滅ぼされる方としてイエスを仰ぐことができますように。

