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デボーション

イザヤ書 17〜18章

忍耐深い園丁

イザヤ書 17〜18章から、私たちがイエスの復活によって実を結べるように、イエスが死を通して刈り込まれたことを見ていきましょう。

何が起こっているのでしょうか

南のユダにいる神の民は、北のイスラエルと強大な国シリヤから攻撃を受けていました。両国はユダの王アハズを暗殺しようと、実際に計画を進めていたのです(列王記Ⅱ 16章、イザヤ書 7:5)。恐れに駆られたアハズは、自分と自分の国を救おうとして、他国と同盟を結び、ほかの神々を賛美し始めました。しかしイザヤは、アハズが恐れるべきは周囲の国々よりも神である、と告げます。アハズの未来は神の御手の中にあり、神に信頼することによってのみ、国を救うことができるのです。 

アハズがシリヤやイスラエルを恐れる必要はありません。神はやがてシリヤの首都を廃墟とし、北イスラエルの軍事拠点を打ち壊されるからです(イザヤ書 17:1〜3)。アハズがあれほど恐れていた同盟は、間もなく崩れ去り、かつては恐るべきものだったシリヤとイスラエルの栄光も、忘れ去られていきます(イザヤ書 17:4〜6)。やがてイスラエルは、自分たちの偽の神には力がないと認め、偶像礼拝の愚かさを捨て、再びまことの神を賛美し始めるのです(イザヤ書 17:7〜11)。アハズには、国が滅びる前に神に信頼するという機会が与えられています。今すぐ条約と偽の神を捨て、神が国を救ってくださると信頼することができるのです。さらにアハズが神に信頼すべき理由は、神がイスラエルとシリヤからだけでなく、彼を攻撃しようとするどの国からも守ってくださるからです。国々は押し寄せる恐ろしい水の壁のように見えるかもしれませんが、神にとっては嵐に舞う枯れ草のようなものにすぎません(イザヤ書 17:12〜14)。アハズが恐れるべき唯一の方は神であり、自分自身と自分の国を神に委ねることによってのみ、救われるのです。

イザヤは突然、アハズへの直接の語りかけをやめ、同じメッセージを全世界に向けて告げます。彼は地の果ての国クシュから使者を呼び集め、ほかのすべての国々にこう警告するのです。神はやがて、軍旗と戦いのラッパに囲まれた将軍のように到来される、と(イザヤ書 18:1〜3)。アハズと同じように、世界も神を恐れ、守りを神に委ねるべきなのです。 しかし神は、世界の国々を攻めよと、すぐにご自分の軍勢に命じたりはなさいません。むしろ神は、行動を起こす前に、世界の反逆と偶像礼拝を忍耐深く見つめておられます(イザヤ書 18:4〜5)。神は戦士としてではなく、熟練した園丁として来られるのです。どのぶどうの木が実を結ぶかを見分け、実を結ばないものを的確に刈り込み、切り取った枝は焼かれるままにされます(イザヤ書 18:5〜6)。イザヤは、神のこの刈り込みが全世界に信仰の実を結ばせる、と語ります。かつてユダを滅ぼそうと企てた国々が、やがて世界を治め、ご自分の民を守られる神をあがめて、贈り物を携えて来るようになるのです(イザヤ書 18:7)。これらの預言は世界に向けられたものですが、同時にアハズのためのものでもあります。不安に駆られた彼の政治的な策略は失敗します。アハズがユダを守りたいのなら、恐れから出た政治的な駆け引きをやめ、国を守ってくださる神に信頼しなければならないのです。 

福音はどこにあるのでしょうか

危機の中で、アハズはユダを守るために政治的な同盟国と偽の神に目を向けました。イザヤのメッセージは単純でした。「国々を恐れるのはやめ、代わりに神に信頼しなさい」というものです。神は、世界のすべての軍隊と神々を合わせたよりも力ある方です。神は、忍耐をもって熟慮された救いのための破壊という御業を通して、世界の偶像礼拝も不信仰も内なる反逆さえも打ち破ることができます。イスラエルは神が約束されたとおりに滅びました。しかしその滅びの後、イスラエルは偶像を捨てたのです。そしてイザヤは預言します。丁寧な刈り込みを通して、神はご自分の民だけでなく世界をも、創造主との実り豊かな関係へと回復してくださる、と。

私たちもアハズと変わりません。自分を造ってくださった神ではなく、お金や権力といった神々に目を向けてしまうのです。私たちにも、忍耐をもって熟慮された救いのための破壊という御業が必要です。イザヤが描いたとおり、使徒パウロも、神が幾千年もの間、人類の反逆を忍耐深く見つめてこられたと告げています(ローマ人への手紙 3:25)。そしてイザヤが預言したとおり、神は御使いの軍勢に、罪人を攻めよとすぐに命じたりはなさいませんでした。むしろ神は、世界にご自分の御子イエスを与えてくださったのです(ローマ人への手紙 5:8)。神の愛に満ちた忍耐と、イエスが自ら進んで受けられた死を通して、救いのための破壊と刈り込みが行われました。私たちが実を結べるように、イエスが切り取られたのです。イエスは弟子たちに、わたしがぶどうの木であり、あなたがたは枝である、と語られました(ヨハネの福音書 15:1〜8)。世界の園丁である方に信頼するとき、神は恵みによって、私たちのような者をイエスというぶどうの木に接ぎ木してくださいます。私たちはイエスのいのちに結ばれ、死が滅ぼすことのできない、実り豊かなぶどうの木となるのです。この世界にいる多くの敵を恐れる理由は、もうどこにもありません。神はそのすべてにまさって力ある方です。そして神に信頼するとき、神は私たちを守るだけでなく、実を結ばせ、いのちに満ちた者としてくださるのです。

ご自身の目で確かめてみましょう

聖霊が目を開いてくださり、園丁である神を見ることができますように。そして、私たちが実を結べるように刈り込まれた方として、イエスを見つめることができますように。 

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