ここで何が起こっているのでしょうか
イスラエルは世界の光となるべき存在でした。神の正義、慈悲、善さを体現する王国となるはずだったのです(イザヤ書 2:1〜5)。神はさらに、貧しい人々や虐げられた人々への憐れみへと心を形づくるために、断食などの手立てまで与えてくださいました。しかし今、イスラエルは追放の中にありました。土地は失われ、神殿は破壊され、民は異国の間に散らされていたのです(イザヤ書 58:1)。追い詰められた彼らは、神の目を引きたいと願って断食に走りました。荒布と灰をまとって身を低くし、神が勇士のように立ち上がり、敵を打ち破り、自分たちを故郷へ帰してくださるようにと訴えたのです(イザヤ書 58:2〜3)。
しかし神は、耳を傾けてはくださいませんでした。
イザヤは、イスラエルが自分たちがなぜ追放されているのかをまだ理解していないと説き明かします。彼らは、宗教的な行いをもっと積み重ねれば苦しみは逆転できると考えていました。まるで断食が、神を操って救わせるための道具であるかのように(イザヤ書 58:4〜5)。しかし神は言われます。彼らが追放されているのは断食が足りなかったからではなく、正義を捨てたからだ、と。彼らは貧しい人々を無視し、家のない人々に背を向け、労働者を虐げてきたのです(イザヤ書 58:6〜7)。イザヤはこの偽善を明るみに出します。彼らは食物を断ちながら、不正を断つことはしなかったのです。もし正義と慈悲と善さに満ちた神の国を求めるなら、神が望まれる断食を生き抜く必要がありました。すなわち、飢えた人にパンを分け、家のない人を迎え入れ、虐げられた人を解放すること——ひと言でいえば、この世界で正義を行うことです(イザヤ書 58:6〜14)。
さらにイザヤは視野を広げます。イスラエルの罪は、断食の問題よりもずっと深いところにありました(イザヤ書 59:1〜5)。彼らの生き方全体が、神の正義と慈悲を映すものではなく、自分たちの暴虐と悪によって汚れていたのです(イザヤ書 59:7〜8)。そしてどれほど宗教的な努力を重ねても、その汚れを覆うことはできません。偽善的な敬虔さによって自分を公正な者にしようとするのは、クモの巣をセーターのように着るようなもので、何も覆いはしないのです(イザヤ書 59:6)。
ついに、イスラエルは自分たちの悪を認めます。自分たちがどれほど望みのない状態にあり、どれほど腐敗し、自分を救うことがまったくできないかを告白したのです。正義をもたらすどころか、虐げを増し加えてきたことを認めます(イザヤ書 59:11〜13)。真実の代わりに偽りを広め(イザヤ書 59:14〜15)、光の代わりに暗闇の中でつまずいてきました——真昼でさえ、夜の中を手探りする者のように盲目だったのです(イザヤ書 59:9〜10)。
そして神が聞いてくださるのは、まさにこの祈りなのです。
神は、彼らの言うことが正しいと認められます。正義と慈悲と善さという神の国を体現できる者は、彼らの中に一人もいないと見抜いておられたのです(イザヤ書 59:16)。彼らは目が見えず、世界の光となることはできません。ですから神は、それをご自身で行われます。ご自分の民が偽善と悪のクモの巣を空しくまとっている間に、神は正義と救いという堅固な武具を頭から足まで身につけられるのです(イザヤ書 59:17)。神は不正に対して戦いに出て行かれます。悪を追い出し、正義と慈悲と善さのご自身の国を確立されるのです(イザヤ書 59:18〜19)。ほかに誰もできないからこそ、神ご自身がこの世界に救いをもたらしてくださいます(イザヤ書 59:20〜21)。
福音はどこにあるのでしょうか
イスラエルと同じように、私たちも目が見えません。私たちの美徳は損なわれ、悪徳は数多くあります。どれほど宗教的な努力を重ねても、罪の汚れを覆うことはできません。しかし、なすすべのない私たちのただ中に、神が踏み込んでくださいました。イエスにおいて、神はご自身の力によって、私たちの悪に対して戦いに出て行き、救いをもたらしてくださるのです。
イエスは、ほかの誰も実現できなかった正義と慈悲と善さの国をもたらすために来られました。イエスはあらゆる不正、偽善、虐げを断たれました(ペテロの手紙Ⅰ 2:22〜24)。その断食は敬虔さの見せかけではなく、飢えた人々のための祝宴でした。見えない目を開き、乏しい人を養い、悪霊に虐げられた人々を解放されたのです(マタイの福音書 4:24、9:28〜30、マルコの福音書 6:41〜44)。イザヤが約束したとおり、イエスはイスラエルの偽善的な敬虔さに対しても戦いを挑まれました。偽りの断食と人目を意識した祈りを厳しく指摘されたのです(マタイの福音書 6:5〜18)。その代わりにイエスは、民を悔い改めへと招かれました。自分の力では正義の国をもたらせないと認め、それを行ってくださる方としてイエスに信頼するように、と(マルコの福音書 1:15)。
イエスご自身が、悪に染まり望みを失った世界のために救いを成し遂げてくださるからです。十字架の上で、イエスは私たちの悪の汚れを実際に取り除くことのできる唯一の覆いを備えてくださいました(ヨハネの手紙Ⅰ 1:7)。流された血は、私たちがこの世にもたらした虐げと暴虐の汚れを、一つ残らず覆います(ヘブル人への手紙 9:14)。私たち自身の義の糸では決して身を覆えませんが、イエスの犠牲は私たちにイエスご自身を着せてくださるのです。今や私たちは、不正で自己中心的で偽善的な者ではなく、イエスにあって、本来そうあるべきだった正しく、善く、憐れみ深い者へと造り変えられていきます(テトスへの手紙 2:14)。
イザヤ書のこの預言の終わりで、神は悔い改めるすべての人に御霊を与えると約束しておられます。悪のパンを断つ人の口は、御霊のことばで満たされるのです(イザヤ書 59:21)。イエスは、ご自身をもって私たちを養ってくださいます(ヨハネの福音書 6:51)。私たちがイエスを味わい、いただくとき、イエスは私たちの心を変え、ついに私たちは、そのために造られた正義と慈悲と善さの国をもたらす者となれるのです。私たちは神のすべての武具を身につけ、虐げと不正に対して戦いに出て行きます——武器によってではなく、慈悲と親切と真実によって(エペソ人への手紙 6:11〜18)。そして出て行きながら、私たち自身を救ったのと同じ良い知らせを告げ知らせます。悔い改めなさい、イエスにあって神の国と救いが近づいているのだから、と(使徒の働き 4:12)。
ご自分の目で確かめてみましょう
聖霊が、闇の支配を決してお許しにならない神を見る目を開いてくださるよう祈ります。そして、私たちに義を着せ、必要の中にある世界へ神の国をもたらすために私たちを遣わしてくださる真の光、イエスを見ることができますように。

