ここで何が起こっているのでしょうか
イエスは弟子たちに、ご自分がもうすぐ死ぬことを告げられたばかりです。そして最後の言葉の中で、聖霊を約束して彼らを慰め、同時にやがて来る迫害について警告されます(ヨハネの福音書 14:16、15:20)。
弟子たちには、その意味が分かりません。彼らはイエスについて行きたいと願い、どこへ行かれるのかを知りたがります。イエスはそれに答えて、父のもとに彼らのための場所を用意しに行くのだと語られます(ヨハネの福音書 14:2)。イエスは、私たちを神と再び結び合わせるという使命を担っておられるのです。ピリポが「父を見せてください」と願うと、イエスは、イエスを見た者は父を見たのだと告げられます。イエスは神の完全な現れなのです(ヨハネの福音書 14:9)。
イエスは彼らに一つの約束を与えられます。ご自分が去った後、父を見て知ることを助けてくれるもう一人の助け手が来る——それが聖霊です(ヨハネの福音書 14:26)。この聖霊は、イエスが満たされていたのと同じように彼らを満たし、私たちが神の品性と本性をこの地上で生き抜くことを可能にしてくださいます。聖霊によって、私たちはイエスの教えを思い起こさせられ、神の命令を守り、その知恵を映し出し、イエスと同じわざを行う力を与えられるのです。イエスの内に生きておられた方が、今度は私たちの内に生きてくださいます。
イエスはこのことを、ぶどう園とそこに実る実にたとえられます。神は農夫、イエスはぶどうの木、そして弟子たちは枝です(ヨハネの福音書 15:1〜2)。彼らがイエスにしっかりとつながっているなら、木のいのちが彼らを満たし、あふれ出て、人を養う実を結びます。イエスのわざは、彼らの内にあるイエスのいのちから自然に流れ出るものなのです(ヨハネの福音書 15:4)。
しかし、この良い知らせには代価が伴います。イエスは神に完全に聞き従う人生を歩まれました。そしてそれが、ご自身の死へとつながっていきます。イエスは、弟子たちが同じ歩みをたどるなら、彼らもまた世に憎まれると約束されます(ヨハネの福音書 15:18)。しもべは主人にまさるものではありません。そしてこの主人は、自らすすんでいのちを捨てられる方なのです。
福音はどこにあるのでしょうか
弟子たちは今まさに、肉と骨をもったメシアを失おうとしています。そして激しい迫害と拷問を経験しようとしています。それから数千年、私たちもまたイエスの臨在なしに生きてこなければなりませんでした。しかし今日の私たちにとっての良い知らせは、こうです。私たちが聖霊に満たされるために、イエスが去られたことは私たちにとって益だったのです(ヨハネの福音書 16:7)。私たちの内におられる聖霊は、傍らにおられる御子以上に良いものだと、イエスは約束してくださいます。
イエスは神のかたちを完全に映し出しておられましたが、それでも一度に一つの場所にしかおられませんでした。ところが今、イエスのいのちを動かしていたのと同じ聖霊が、イエスに従うすべての者の内に住み、イエスのように生きる力と備えを与えてくださるのです(ヨハネの福音書 14:12)。
聖霊は私たちの行いに力を与えるだけではありません。私たちの語る言葉にも力を与えてくださいます。イエスは、聖霊が罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかにすると語られます(ヨハネの福音書 16:8)。イエスの死と聖霊という贈り物によって、私たちの不信は死に、私たちはイエスとともによみがえらされて、この世のあらゆる力の上に立つ者とされるのです。
ご自身で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、御子をご自身の霊で満たされた神を見ることができますように。そして、私たちの内におられるその同じ聖霊の力によって、苦しみに向き合い、大胆に生きる力を与えてくださる方として、イエスを見つめることができますように。

