何が起こっているのでしょうか
ヨハネの福音書は「初めに」ということばで幕を開けます。このことばは、神がことばによって世界を造られた創世記へと私たちを引き戻します。ヨハネが伝えているのは、神のことばはあまりにも力強く、あまりにも具体的で、単なる響きにとどまらないということです。それは一人の人格を持つ方なのです。
このことばには口が与えられ、目もあります。神が人となられたのです。このことばは神とともにあり、そして神そのものでした。神が闇の中に光をことばで呼び出されたように、今また神は暗い世界へと光のことばを遣わされます。イエスが現れれば神のことばは誰の目にも明らかになるはずだ、と私たちは思うかもしれません。けれども実際には、ほとんどの人が神の声を見ることも聞くこともありませんでした。
そこで神は、ヨハネという一人の人を遣わされます。ご自分の民がイエスを光として見、人となったことばを聞き取れるように備えさせるためです。ヨハネは謙遜な人でした。自分に注目を集めようとはせず、イザヤ書のことばで自分の務めを言い表しました。「私は荒野で叫ぶ者の声だ。『主の道をまっすぐにせよ』」(イザヤ書 40:3)。神が追放された民に慰めを約束されたように、今ヨハネは、イスラエルの追放の時がついに終わろうとしていると宣べ伝えるために来たのです。
ヨハネは、悔い改めの洗礼で知られていました。イスラエルに罪から立ち返るよう呼びかけたのは、神が民をきよめ、その罪を二度と思い出されないようにするためです(イザヤ書 43:25、エレミヤ書 31:34)。しかしヨハネは、自分の洗礼がイエスによってもたらされる、もっと大きなきよめを指し示すしるしにすぎないと理解していました。ヨハネの洗礼は悔い改めによって人々を備えるものでしたが、イエスは最終的なきよめをもたらすために来られました。それは罪を赦すだけでなく、罪の力を永遠に打ち砕くきよめです。
だからこそヨハネはイエスを見て、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネの福音書 1:29)だと宣言したのです。この表現はイスラエルの物語から取られています。出エジプト記において、小羊の血は神の民を死から救い出し、神との契約関係へと導き入れました。また神殿では、罪の供物としてささげられた小羊が神の民をその暗闇からきよめ、神のように光ある者としました。ヨハネは、イエスがこの両方の姿をどちらも成就する方だと語っているのです。イエスは死から救い出すまことの過越の祭の小羊であり、罪を取り除いて神の民を聖い者とするまことの罪の供物なのです。世の人々が目の前で起こっていることに気づかずにいた中で、ヨハネはそれを見て、イエスが神の子であると証ししました(ヨハネの福音書 1:34)。
福音はどこにあるのでしょうか
キリスト教の最も驚くべき主張の一つは、神が人となられたということです。古代の神話にも人の姿を取る神々が登場しますが、人となったイエスは、それでもなお神ご自身なのです。これを冒瀆と受け取る人もいれば、混乱を覚える人もいます——完全に人であり、同時に完全に神であるなど、どうしてありうるのでしょうか。
けれどもバプテスマのヨハネは、ほかの誰も見なかったことを見抜いていました。ことばが人となってこそ、罪はただ一度で永遠に打ち破られ、きよめられるのです。光を犠牲としてささげることはできません。ことばだけでは、私たちを暗闇から解き放つことはできません。罪の力が砕かれる道はただ一つ——ことばが私たちと同じ者となり、光が私たちの暗闇の中へ踏み込み、いのちそのものが私たちの死の中に入ることです。罪の下に縛られた世界を見られた神は、ご自身を過越の祭の小羊として、また罪の供物として遣わされました。ご自分の民を死から救い出し、きよめて、神のいのちを分け合う者とするためです。
ヨハネの悔い改めの洗礼は、この時を指し示していました。イエスにあって、悔い改めは赦しにとどまらず、きよめへと導きます。その血は罪を洗い流し、罪の力を永遠に打ち砕きます。イエスに立ち返るとき、私たちは赦されるだけでなく、自由にされるのです。
ヨハネの福音書が展開していく中で、私たちはバプテスマのヨハネが目にし、証ししたものを見るように招かれています。多くの人が見落としたものを垣間見るように、そしてイエスが弟子たちに最初に語られたことば——「来て、見なさい」——を聞くようにと招かれているのです。
ご自身の目で見てみましょう
力あることばによってすべてのものを造られる神を見る目が、聖霊によって開かれますようにと祈ります。そしてイエスを、人となったことばとして——死から救い出し、罪からきよめ、神とともに生きるいのちを与えてくださるまことの小羊として——見ることができますように。

