何が起こっているのでしょうか
イエスは、およそ考えられないような人にまでいのちを差し出されます。ところが、そのイエスを追い返してしまうのは、たいてい最も宗教的な人々なのです。
ヨハネの福音書 4章には、二つの物語が置かれています。一つ目では、イエスが井戸のそばでサマリア人の女に預言をなさり、二つ目では、カペナウムで役人の息子をいやされます。サマリア人の女はイエスをメシアと信じ、彼女の村の人々もまた、イエスをメシアとして信頼するようになりました(ヨハネの福音書 4:41)。しかしカペナウムでは、町の人々は疑いと迫害をもって応じたのです。
イエスは、こうなることをご存じでした。到着する直前に、預言者は自分の郷里では敬われないと語っておられます(ヨハネの福音書 4:44)。そして役人の息子をいやされた後、人々の不信仰を指摘されました(ヨハネの福音書 4:48)。サマリア人たちはイエスのことばをそのまま信頼しようと切望していたのに、カペナウムの人々が求めたのは、ただ不思議なわざの見物だったのです。
イエスは弟子たちに、目を上げて、畑が刈り入れを待って色づいているのを見るように、と言われます(ヨハネの福音書 4:35)。「目を上げ」なければならなかったのは、刈り入れの畑がユダヤ人の間ではなくサマリア人の間にあったから、つまり宗教的な人々の間ではなく、罪人の間にあったからです。あのサマリア人の女は、その両方に当てはまる人でした。
彼女は五度も離婚を経験し、身を持ち崩した生き方のゆえに共同体から疎外されていました(ヨハネの福音書 4:18)。さらにサマリア人として、ユダヤ人の宗教的多数派による長い分離と迫害の歴史の犠牲者でもありました。それでもイエスは、この評判の悪い女性を選び、ご自身が永遠のいのちを与えるメシアであることを明かされたのです。
この女性は、イエスの最初の宣教者となりました。町中の人々がイエスをメシアと信じたのは、奇跡のゆえではなく、そのことばのゆえでした(ヨハネの福音書 4:42)。カペナウムでは同胞の間に頑なな心があった一方で、イエスの語られることばは、社会の片隅に押しやられた人々に喜んで迎えられたのです。
福音はどこにあるのでしょうか
イエスは、社会から追い出された罪人も、心の頑なな人々も、どちらも勝ち取ろうとしておられます。サマリア人の間で二日間仕えられた後、誤解され拒まれると分かっている場所へ、あえて戻って行かれるのです。
イエスは、すべての人に信頼してほしいと願っておられます。社会から見捨てられた者であっても、深く宗教的な者であっても同じです。なぜならイエスは、ご自分の刈り入れがどこにあろうと、それを集めるために来られた刈り入れ人だからです。そして、サマリア人の女にいのちの水を差し出されたように、渇いていると打ち明ける人は誰でも、イエスによって満たされるのです(ヨハネの福音書 4:14)。
ご自身の目で確かめてみましょう
すべての人の間に永遠のいのちの種を蒔いてくださる神を見る目を、聖霊が与えてくださいますように。そして、どこに見いだされる魂であっても刈り入れてくださる偉大な刈り入れ人として、イエスを仰ぐことができますように。

