何が起こっているのでしょうか
何十年もの待ち望みの果てに、約束の子がついに生まれました。イサクはアブラハムのただひとりの息子であり、神のすべての約束がこの子を通して実現するはずでした(22:2)。ところが、聖書の中で最も衝撃的な場面のひとつが訪れます。神はアブラハムに、イサクをモリヤの山へ連れて行き、焼き尽くす供物としてささげるようお命じになるのです。
これは考えられないことのように思えます。神は聖書全体を通して、子どものいけにえを一貫して非難しておられます(レビ記 18:21、エレミヤ書 7:31)。アブラハムにイサクを傷つけさせるおつもりは、神には初めからありませんでした。この試みの目的は死ではなく、信頼でした。死によってそれが不可能に見えるときでも、アブラハムは神がイサクを通してこの世界にいのちをもたらしてくださると信じられるでしょうか。
アブラハムの信頼は細部に現れています。山へ出発するとき、彼は若者たちにこう告げます。「私たちは賛美をささげてから、あなたたちのところへ戻って来る」(22:5)。アブラハムは自分とイサクの両方が戻って来ると心から信じていたのです。イサクが供物のための小羊はどこにいるのかと尋ねると、アブラハムは「神ご自身が小羊を備えてくださる」と答えます(22:8)。たとえ息子が死んだとしても、神はいのちを備えてくださる——アブラハムはそう信頼していました。なぜなら神が、いのちはイサクを通して来ると約束しておられたからです。
神がどのような犠牲を求められたのかを見ることも大切です。それは焼き尽くす供物、つまり最も価値あるものを何ひとつ自分のために取り置かず、すべて神におささげするものでした。それは神への全き献身と愛のしるしでした。アブラハムの試みは献身と信頼にかかわるものであり、神が本当に子どもの死を望まれたかどうかという話ではありません。
まさに最後の瞬間、神はアブラハムをお止めになります。一頭の雄羊が茂みに引っかかっていて、アブラハムはそれを代わりにささげます。アブラハムの言葉は真実となりました。神は備えてくださるのです。
続く物語は、この試みが何をもたらしたかを示しています。22章の終わりで、アブラハムの親族に突然、多くの子どもが次々と生まれていきます(22:20〜24)。アブラハムの家族を豊かに増やすという神の約束が、目に見える形で成就した最初の出来事です。しかし23章は、再び死という現実を私たちの前に置きます。かつて神がいのちで満たしてくださった胎を持つ女性、サラが今、死ぬのです(23:2)。アブラハムはヘテ人から墓地となる土地を買い取ることにこだわります。彼らは無償で譲ろうとしましたが、アブラハムは正当な代価を全額支払いました。死の中にあってさえ、アブラハムは信頼の旗を立てるのです。ここは神が自分の家族に約束してくださった地であり、神は再び死からいのちを生み出してくださる、と。
福音はどこにあるのでしょうか
この物語は、まことの約束の御子であるイエスを指し示しています。イサクのように、イエスも、その方を通していのちと祝福が世界にもたらされる愛する御子です。しかしイサクとは違い、イエスは免れることがありませんでした。イエスは父への愛と献身の全き供物として、自ら進んでご自身をおささげになったのです(ヨハネの福音書 10:17〜18)。
アブラハムにできなかったことを、神がなさいました。神は雄羊だけでなく、ご自身の御子を備えてくださり、その御子はご自身を全くささげてくださいました。イエスにおいて、神は契約に対する誠実さを示されます。たとえ死そのものを通り抜けることになっても、いのちはアブラハムの家族を通して来るのです。
そして試みの後にアブラハムの家族にいのちがあふれ出たように、イエスの復活からいのちがあふれ出ます。イエスの死が終わりではなかったのと同じように、サラの死も物語の終わりではありません。どちらも、死からいのちを生み出し、ご自身を信頼する民で地を満たされる神の力を、前方に指し示しているのです。
私たちにとって、これは希望を意味します。アブラハムのように、私たちも神の約束と死の現実との間の緊張の中で生きています。けれどもイエスにおいて、神が備えてくださることが見えてきます。神はいのちを起こし、ご自身の民に相続地を与え、この世界をご自身の祝福で満たすことに、決して失敗なさいません。
ご自分の目で確かめてみましょう
死が勝ったように見えるときにも、なおいのちを備えてくださる神を見る目が、聖霊によって開かれますようにお祈りします。そして、愛のうちに全くご自身をささげ、その方を通して神が死からいのちをもたらし、全世界に対する約束を成就される愛する御子、イエスが見えてきますように。

