何が起こっているのでしょうか
創世記は、神がこれまでになさったすべてを振り返り、同時にこれから起ころうとしていることを見つめながら閉じられます。
初めから神は、人と共に働き、世界を祝福といのちで満たそうとしておられました。その約束は、罪と死、そして蛇によって脅かされます。それでも神はアブラハムに、星の数ほどの子孫と、彼ら自身の地と、すべての民族への祝福を約束されました(創世記 12:1〜3、15:5)。けれども、その約束は絶えず危機にさらされてきました。サラは実のならない身のままでした。イシュマエルは追い出されました。ヤコブは兄に殺されかけました。ヨセフは奴隷として売られました。そして今、ききんがカナンの地を襲い、一族全体を消し去ろうとしています。
しかし神は、その間ずっと働いておられました。ききんの中で世界が養われるために、神はヨセフを穴の底からファラオの右の座へと引き上げられたのです(創世記 41:57)。そして今、神はヤコブとそのすべての息子たちをエジプトへ下らせます。難民としてではなく、賓客として迎えられるためです。その途上、神は幻のうちにヤコブを力づけて言われます。「エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にする」(創世記 46:3)。選ばれた家族にとって死を意味するように見えた場所が、かえって彼らが増え広がる場所となるのです。
ヤコブは死を前に、十二人の息子を集め、彼らに祝福のことばを語ります(創世記 49章)。ここが創世記の頂点です。かつて一人の息子に担われ、やがて一つの家族に担われてきた神の約束が、今や一つの民全体に委ねられるのです。息子たちはそれぞれ部族となり、彼らを通して神の契約の目的が前進していきます。
ところが、この書はヤコブではなく、ヨセフで閉じられます。兄たちがあれほどのことをしたにもかかわらず、ヨセフは彼らを赦します。兄たちは、今こそ復讐されるのではないかと恐れますが、ヨセフは創世記全体を解き明かす鍵となることばを口にします。「あなたがたは私に悪を企てましたが、神はそれを良いことのために計られたのです。今日のように、多くの人のいのちを救うために」(創世記 50:20)。
これこそ、初めからずっと続いてきた物語です。アダムとイブの失敗も、神の約束を無にすることはできませんでした。カインの殺人も、その子孫を絶やすことはできませんでした。バベルも、それを散らし去ることはできませんでした。アブラハムの過ち、イサクのえこひいき、ヤコブの策略、ユダの罪——そのどれ一つとして、神の契約を破ることはできなかったのです。幾度となく、人が悪を意図しても、神は良いことを意図されました。死が確実に思えるところにいのちをもたらすため、一つの民を守り抜くため、そして約束を生かし続けるためです。
福音はどこにあるのでしょうか
創世記は、すべての約束の真の完成であるイエスへと、私たちの目を向けさせながら終わります。
ヨセフが兄弟たちに裏切られたように、イエスもご自分の民に裏切られました(使徒の働き 2:23)。ヨセフが売られ、異国の人々の手に渡されたように、イエスも銀貨で売られ、ローマの手に渡されました。ヨセフが穴の底からファラオの右の座へ引き上げられたように、イエスも墓から天国の御座へと引き上げられました(ピリピ人への手紙 2:9〜11)。
けれども、ヨセフが救ったのは、ききんから逃れた一部の人々にすぎません。イエスは世界を死から救ってくださいます。ヨセフは穀物で諸国の民を養いました。イエスはいのちのパン、すなわちご自身によって諸国の民を養われます(ヨハネの福音書 6:35)。ヨセフは罪ある兄たちを赦し、自分の蓄えの中に迎え入れました。イエスは罪ある人類を赦し、永遠の家族として迎え入れてくださいます。
創世記 50:20 は、福音の鼓動そのものです。悪が死を意図するところで、神はいのちを意図しておられます。イエスにおいて、この真理は永遠に確かなものとされました。イエスは、蛇の頭を砕く女の子孫であり(創世記 3:15)、すべての民族を祝福するアブラハムの真の子です(創世記 12:3)。族長たちが失敗したところで信頼し、従い通された、誠実なイスラエルです。そして、死からいのちを、悪から良いものを生み出してくださる、公正な御子なのです。
ご自分の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、初めから悪の中から良いものを生み出してこられた神を見ることができますように。そして、創世記のすべての糸を結び合わせて成就し、死をいのちへ、悪を世界の救いへと変えてくださる約束の御子イエスを、はっきりと見ることができますようにと祈ります。

