ここで何が起こっているのでしょうか
エゼキエルは、委ねられた民を食い物にし、イスラエルを追放へと導いたイスラエルの指導者たちを厳しく責めています。この章に特徴的なのは、そうした指導者たちを「羊飼い」と呼んでいる点です。イスラエルの最初の王ダビデは、王座に就く前は羊飼いでした(サムエル記Ⅱ 5:2)。神はダビデにも、その後のすべての王たちにも、羊飼いが群れを優しく世話するように神の民を治めるようにと命じられました。しかしエゼキエルの時代、羊飼いたちは羊を襲う者に成り下がっていました。そこでエゼキエルは、神が彼らの手からご自身の群れを救い出し、民が再び神とともに生きられるようにするために来られる、と悪い指導者たちに警告するのです。
エゼキエルはまず、イスラエルの指導者たちが何をしてきたのか、そして神がその悪行にどう応えられるのかを詳しく語ります。彼らは民を偶像礼拝へと導き、社会の隅に追いやられた人々を顧みず、外国の軍勢から民を守ることもしませんでした。自分の立場を、民に仕えるためではなく民を利用するために用いたのですから、神は腐敗した指導者たちを取り除き、虐げられたご自分の民を救い出されます(エゼキエル書 34:1〜10)。そして神ご自身が、民が必要としているよい羊飼いとなってくださるのです。神は隅に追いやられた人々を顧み、追放の地に散らされた者たちを集めてくださいます(エゼキエル書 34:11〜16)。
けれども、神の群れが直面していた問題は悪い指導者たちだけではありませんでした。エゼキエルは、同じような悪行を重ねていた社会の富める者たちにも厳しく迫ります。上層の人々は貧しい者から奪い、自分たちの腹を満たしていました。エゼキエルは彼らを、限られた食べ物を奪い合い、川の水を踏み汚して下流の者が飲めないようにする自分勝手な羊にたとえています(エゼキエル書 34:17〜19)。しかし、この富める階級の犠牲となった人々にも希望があります。神は新しいダビデ、羊飼いである王を遣わし、富める羊と貧しい羊の間に公平をもたらしてくださる、とエゼキエルは告げるのです(エゼキエル書 34:20〜24)。この新しいダビデは、イスラエルを神と結び合わせ、神の民が自分たちの地で豊かに栄えるようにしてくださいます(エゼキエル書 34:25〜27)。神が選ばれた羊飼いである王のもとで、民はもはや追放や悪い指導に苦しむことなく、豊かな地で神が近くにいてくださる恵みを永遠に味わうのです(エゼキエル書 34:28〜31)。
福音はどこにあるのでしょうか
腐敗した羊飼いと悪い羊という問題は、イスラエルの指導者たちの時代で終わったわけではありませんでした。ダビデ王朝のどの世代も、イスラエルが必要としていた公平と配慮を与えることができませんでした。それでも神は、ご自分が民を牧し、新しいダビデを遣わして民をご自分のもとへ、また豊かな地へと連れ戻すと約束されました。その新しいダビデこそ、イエスです。
イエスはダビデの子孫であり、エゼキエルが待ち望んだよい羊飼いです。神は、弱く傷ついた群れを顧みるためにイエスを遣わされました。イエスは当時の宗教的な指導者層が神の群れに仕えるどころか食い物にしていることを責められました(ルカの福音書 11:37〜46、マルコの福音書 11:17)。そして打ちひしがれた人々には、自分は彼らに仕え、彼らの羊飼いとなるために来たのだと告げられたのです(マタイの福音書 20:28、ヨハネの福音書 10:14〜15)。よい羊飼いが羊の傷を手当てし、迷った羊を探し求めるように、イエスは行かれる先々で病んだ人をいやし、社会からはじき出された人々を迎え入れられました。さらによい羊飼いとして、イエスは羊を守るためにご自分のいのちを与えてくださいました(ヨハネの福音書 10:11)。園でイエスと弟子たちが敵に囲まれたとき、イエスは仲間が逃れられるように、あえて自ら捕らえられました(ヨハネの福音書 18:8〜9)。腐敗した羊飼いたちの手で殺されましたが、イエスは墓からよみがえられました。はるか昔、サムエル記において、神はダビデに、その子の一人が正義をもって永遠に治めると約束されました(サムエル記Ⅱ 7:1〜16)。イエスこそ、ダビデに約束されたその子であり、神の民の永遠の羊飼いです。イエスは王であり羊飼いであって、民を導き、神のもとへと回復してくださり、民が永遠に神とともに生きられるようにしてくださるのです(ヨハネの黙示録 7:17)。
ご自身の目で見てみましょう
羊飼いが羊を心にかけるように民を顧みてくださる神を仰ぎ見ることができるよう、聖霊が目を開いてくださることを祈ります。そして、民がいのちを得られるようにご自分のいのちを捨ててくださったよい羊飼いとして、イエスを見つめることができますように。

