何が起こっているのでしょうか
アモンとイスラエルという二つの国は、戦争の準備を進めています。両国はつい先ごろバビロンに反乱を試みたばかりで、今バビロンは反撃のために軍を集めているところです。うろたえたイスラエルの政治指導者たちは、エゼキエルのもとに来て神の導きを求めます。ところが神は語ることを拒まれます(エゼキエル書 20:1〜4)。エゼキエルは、イスラエルがこれまで神に聞き従ってこなかったからこそ、今、神は何の導きもお与えにならないのだと説明します。エジプトでの始まりから今この時に至るまで、イスラエルは神を退け、ほかの神々を賛美し、偶像を造り、さらには自分の子どもを悪霊にいけにえとしてささげることさえしてきました(エゼキエル書 20:5〜29)。何百年にもわたって、イスラエルは一貫して神の導きを拒み、進んで偶像礼拝を受け入れ、異教の神々に助言を求めてきたのです。イスラエルが脅威にさらされているにもかかわらず、神は偽善的な指導者たちには語らないと約束されます(エゼキエル書 20:30〜33)。バビロンの侵攻と神の沈黙は、イスラエルの偽善的で偶像に走った指導者たちを滅ぼし、新しく、よりすぐれた統治者のための場所を空けることになります(エゼキエル書 20:34〜38)。
けれども神は、このさばきが最終的な結末ではないとも約束されます。バビロンの荒野で過ごす訓練の時は、神の民を偽善と偶像礼拝から清めるのです。その日、神ご自身が彼らの王となられます(エゼキエル書 20:33)。そして神は民を故郷へと呼び戻し、そこで彼らは再び神を賛美するようになります(エゼキエル書 20:41〜44)。しかしその回復の前に、まずバビロンが地上における神の剣として働き、聞き従おうとしない心と偶像礼拝からエルサレムを清めるのだと、エゼキエルは繰り返し告げます(エゼキエル書 21:1〜17)。
ほかの神々に耳を傾けることがいかに愚かであるかを浮き彫りにするため、神はエゼキエルにこう語られます。バビロンの王がイスラエルに侵攻するのは、彼の偶像がそうせよと告げるからだ、と。皮肉なことに、その偶像とは、イスラエルが自ら国に持ち込んだのと同じ神々だったのです。バビロンの神々はイスラエルを裏切ります(エゼキエル書 21:18〜24)。イスラエルの悪しき指導者たちはことごとく王座から降ろされ、恥を受け、ついに神が腐敗した指導体制に代わるふさわしい王を立てられる時が来ます(エゼキエル書 21:25〜27)。続いてエゼキエルは、アモンにも同じくバビロンによる罰が下ると思い起こさせます。バビロンはイスラエルを攻めに向かう道で彼らを通り過ぎたように見えましたが、次は自分たちの番だと警告するのです(エゼキエル書 21:28〜32)。
福音はどこにあるのでしょうか
イスラエルとその指導者たちは、慢性的に、習慣的に、そして反抗的に、神の導きに耳を閉ざしてきました。神の沈黙、バビロンの侵攻、イスラエルの追放は、偶像礼拝と子どものいけにえ、そして神の御名を汚してきたことに対する、清めのための罰でした。それでもなお神は、ご自身の沈黙も民の滅びも最終的な結末ではないと約束されました。追放の後、神は民を清め、彼らを導くふさわしい王を立てられるのです(エゼキエル書 21:25〜27)。その王の名がイエスです。
イスラエルのかつての指導者たちとは違い、イエスは完全に神に聞き従い、従順に歩まれました(ヨハネの福音書 4:34、5:30、6:38、8:26、10:18、12:49〜50、14:30〜31、15:10)。イスラエルの多くの王たちのように、目の前の腐敗をただ受け入れるのではなく、イエスはその働きの多くを、イスラエルの偽善的で悪しき指導者たちと向き合うことに費やされました(マタイの福音書 21:12〜15、23:23〜32)。しかしイエスが当時の腐敗した指導者たちに取って代わられた道筋は、強大な軍勢を率いてエルサレムを打ち倒すことではなく、神の導きに従って死ぬことでした。その時代の支配者たちは、あらゆる力を尽くしてイエスを黙らせようとしましたが、イエスは死からよみがえられました。神の導きに聞き従うことは、指導者たちや帝国のあらゆる策略や陰謀よりも力強いのだと、イエスは証明されたのです(コロサイ人への手紙 2:15)。今、イエスはすべての国と地を超える王座に座しておられます(使徒の働き 7:55〜56)。イエスはいのちと死と全地を永遠に治める王であり、私たち一人一人に「聞きなさい」と招いておられます。その招きに応えるなら、イエスは私たちを死と追放ではなく、ご自身の永遠の故郷における永遠のいのちへと導いてくださるのです。
ご自身の目で確かめてみましょう
民が誠実でなかったにもかかわらず、彼らを回復するという約束を守り通される神を見る目が開かれるよう、聖霊の働きを祈ります。そして、私たちの心を清め、私たちを故郷の地へと回復してくださる王としてのイエスを、どうか見ることができますように。

