何が起こっているのでしょうか
バビロンの軍隊がイスラエルを攻め、多くの民を追放したとき、隣国エドムはイスラエルの無防備な状態を利用しました。いくつかの町を略奪し、その地域を支配しようと企てたのです。それゆえエゼキエルは、神がエドムの国(「セイル山」と呼ばれています)を罰すると告げます。神はエドムのすべての陰謀を聞いておられ、やがて彼らがイスラエルに対して行ったとおりのことを、彼らに対して行われます。エドムはイスラエルの荒廃を喜んだので、彼ら自身が荒れ果てた地となるのです(エゼキエル書 35:1〜15)。
またエゼキエルはイスラエルに、たとえ土地が侵略され略奪されたとしても、神が回復してくださると語ります。神はエドムの機に乗じた侵略をご覧になり、イスラエルのために必ず報復すると約束されます(エゼキエル書 36:1〜7)。神はご自分の民を回復させ、敵から守ることを固く決めておられるのです。イスラエルを再び実り豊かな地、栄える国とすると約束されます。町々に人を住まわせ、家畜を増やし、作物を植え直してくださるのです(エゼキエル書 36:8〜12)。神はイスラエルの味方であり、そのすべての敵を打ち倒されます(エゼキエル書 36:13〜15)。
しかしエゼキエルは、イスラエルが無実の被害者ではないことも思い起こさせます。イスラエルは神を愛し、互いに愛し合うことによって、自分たちの神のすばらしさを世界に示すはずでした。ところが何世紀にもわたって、彼らは互いに殺し合い、神よりも偶像を愛してきました。イスラエルの過去の行いは、世界の目から神のすばらしさを覆い隠し、諸国の間で神の名を汚してしまったのです(エゼキエル書 36:16〜23)。バビロンでの追放は、悪の歴史に対する当然の罰でした。それにもかかわらず神は、やがてご自分の民の罪をきよめ、その心を柔らかくして従う者とすると約束されます。さらにご自身の霊を彼らの内に置き、ついに神を愛し、互いに愛し合うことができるようにしてくださるのです(エゼキエル書 36:24〜27)。エゼキエルは、イスラエルにはこれを受ける資格などないと繰り返し語りますが、それでも神は行ってくださいます。ご自身の名のために、神はご自分の民を赦されるのです。そうして世界はついに、神とはすばらしく、恵みに満ち、資格のない者を赦してくださる方だと知るのです(エゼキエル書 36:28〜32)。やがて神は廃墟となった町々を城壁のある町として建て直し、イスラエルの荒れ地を耕された園に変え、神の民は再びその地に住むようになります(エゼキエル書 36:33〜38)。
福音はどこにあるのでしょうか
エゼキエルが預言し、神が約束されたとおり、イスラエルは確かに故郷へ帰りました。しかし帰還しても、その心はほとんど柔らかくなりませんでした。イスラエルが神のすばらしさを世界に示せるようになったわけではなかったのです。それでも神は、彼らの心をご自身の霊で満たし、ついに神を愛し互いに愛し合えるようにして、世界に神を映し出す民へと変えるという約束を忘れてはおられませんでした。この約束がついに実現したのは、神がご自身の名の誉れを回復するために、御子イエスを遣わすと決められたときでした。イエスは、神の民が待ち望み、世界が見る必要のあった赦しを、確かに成し遂げてくださったのです。
旧約聖書を通して、神の民は犠牲によって罪と悪を赦されてきました。ですから神は、イエスにおいて、ご自分の民すべてを公に赦すための犠牲として死なれたのです。十字架の上で、愛と赦しの神であるという神の名が、全世界に示されました。イエスは、ご自分の民のすべての失敗、罪、不従順に対する赦しを確かなものとしてくださいました。しかし神が約束されたのは赦しだけではなく、神の霊によって造り変えられた心でもありました(エゼキエル書 36:26〜27)。
こうして神の霊の力によって、イエスは死からよみがえり、ご自分に従う者たちに霊を送る備えをされました(ローマ人への手紙 8:11、ヨハネの福音書 14:15〜17)。そしてわずか数日後、神の霊が神の民に注がれたのです。約束のとおり、神の霊はこの賜物を受け入れた人々を変えました。愛に動かされて、集まっていた人々はただちに自分の持ち物を売り、困っている人々を助け始めました。バビロンやエドムのような国々の手によってイスラエルが略奪されたことが、小さな形ではありますが、ついに逆転され始めたのです(使徒の働き 2:42〜47)。そしてその日以来、資格のない者に向けられた神の恵みと赦しという良い知らせは、世界中を巡り、インターネットを越えて広がってきました。今このことばを読んでいるという事実そのものが、神が約束どおりにご自身の名の誉れを回復し、ご自分の民を造り変えてくださった証拠なのです。
ご自身で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、私たちをすべての罪からきよめてくださる神を見ることができますよう祈ります。そして、その血によって私たちをきよめ、その霊によって新しくしてくださる方として、イエスを仰ぐことができますように。

