ここで何が起こっているのでしょうか
レビ記の冒頭で説明される最後の供物は、しばしば「罪過のための供物」と呼ばれますが、より適切には「賠償の供物」あるいは「償いの供物」と訳せます。この供物が示しているのは、罪が神の聖い住まいを汚すだけでなく、返済または代替が必要な経済的損失をも生じさせるということです。
これまでに見てきたように、罪のきよめのための供物は幕屋から「罪を除き去り」、だれかが神の聖い制度を誤って扱ったときに生じる死の染み込みからきよめます。しかし、きよめるだけでは十分ではありません。罪が聖い器具や場所を汚すとき、そこには失われたものがあるのです。たとえば、器や道具は使えなくなってしまいます。犠牲の血は汚れが生じた場所をきよめますが、汚された品物そのものは取り替えなければなりません。
そこで登場するのが、この償いの供物です。賛美をささげる者は、損害を受けた品物と同じ価値を持つ動物を携えて来ます。その動物は売られ、その価値は「聖所のシェケルによって」量られます(レビ記 5:15)。その代金は壊れたものを作り直すために用いられ、神の住まいが回復されて、いのちと神聖さが再び豊かに満ちるようになるのです。
同じ原則は、過ちが神の聖所に対してではなく隣人に対して犯された場合にも当てはまります。だれかが偽り、だまし、盗んだなら、その経済的損害は現実のものであり、測ることができます。神は全額の返済を、同じ聖所の基準に換算した上で求められ、さらにその価値の五分の一(20パーセント)を加えるよう命じられます(レビ記 6:5)。この上乗せ分は、相手にかけた迷惑と、壊れたものを修復するために必要な労力を償うものです。神の正義は、最低限を満たすことを目指すものではありません。壊れたものを回復し、それ以上に回復してくださるのです。
このように、償いの供物は二つのレベルで働きます。神の聖い住まいを回復し、同時に隣人への賠償を果たすのです。罪は個人的な問題にとどまらないことを、この供物は示しています。罪は他者に代価を負わせる関係の破れであり、神はご自分の民にそれを正しくすることを求めておられるのです。
福音はどこにあるのでしょうか
償いの供物は、神の修復を完全な形にもたらしてくださるイエスを指し示しています。
第一に、イエスは私たちと共にある神の住まいを回復してくださいます。注ぎ出されたそのいのちは、きよめる以上のもの、新しく造り出すものです。イエスは罪が壊したものを繕うだけでなく、私たちを新しく造られた者として作り直してくださいます(コリント人への手紙Ⅱ 5:17)。イエスにあって、汚された私たちの人生の器は捨てられることなく回復され、神の臨在のための聖い器へと作り変えられるのです(テモテへの手紙Ⅱ 2:21)。そして、回復される品物の価値が犠牲の価値に反映されていたように、イエスの犠牲は、私たちが神にとってどれほど価値ある存在かを示しています。
第二に、イエスは他者との関係を回復してくださいます。ザアカイのように、奪ったものを、求められている以上に返す者へと私たちを造り変えてくださるのです(ルカの福音書 19:8)。そして、私たちには回復できないところでも、イエスにはそれができ、必ずそうしてくださいます。イエスは「五分の一」を加えるだけでなく、すべてを新しくされる方です(ヨハネの黙示録 21:5)。その正義は、単に秤の釣り合いを取るのではなく、復活のいのちで世界を満たすのです。
レビ記の償いの供物は、この真理をほのめかしていました。罪には代価が伴いますが、神は失われたものを超える回復への道を備えてくださる、ということです。イエスにおいて、その回復は完全な形に至ります。天と地を修復し、私たちを神と和解させ、他者に対する私たちの罪がもたらした傷を癒すのです。
ご自身の目で見てみましょう
損害をそのままに放置せず、失われたものを超えて回復してくださる神を見る目を、聖霊が与えてくださるよう祈ります。そして、まことの償いの供物であるイエス、そのいのちが私たちを作り直すだけでなくすべてのものを和解させ、壊れたすべてが新しくされるまで及ぶ、そのイエスを見つめることができますように。

