ここで何が起こっているのでしょうか
はじめから、神のご計画は、聖い民が聖い場所で神とともに住み、そのすべてが聖い時を中心に営まれることでした。神とともに歩む人間の生活のすべてが、神との交わりのために取り分けられるはずだったのです。エデンで神は園を設け、そこに人を置き、七日目に休まれました。働かれた前の六日間とは違って、七日目には夕も朝もありませんでした。それは永遠に続くべき日、天と地が一つであり、すべての創造が神の平和のリズムの中で生きる日だったからです。人間は、その安息に入るために造られました。神の聖い時を分け合い、エデンの秩序といのちの豊かさを世界へと広げていくためです。
しかし罪が、そのリズムを砕いてしまいました。働きは苦役となり、豊かさは欠乏となり、安息は奴隷状態へと変わりました。かつていのちに満ちていた地は、汗と血と死に刻まれる場所となったのです。レビ記 25章は、そののろいを解きほどき始めようとする神のご計画です。安息の年とヨベルの年を通して、神は壊れた世界の只中に、安息と正義と回復というエデンのリズムを再び据えてくださいます。
七日目ごとに、イスラエルは働きをやめ、創造が神のものであることを思い起こしました。七年目ごとに、地そのものが休み、土さえも神の備えに依り頼んでいることを教えられました。そして七の七年が過ぎたのち、大いなる安息日――ヨベルの年が訪れたのです。
ヨベルの年には、すべてのもの、すべての人が元に戻されました。負債は取り消され、奴隷は解放され、家族はそれぞれの先祖の土地へと帰りました。貧しさや奴隷状態に閉じ込められたままの人は、だれもいなくなったのです。国全体が「リセット」を押したのでした。
ヨベルは、エデン以来の神のご意図を目に見える形にしました。貪欲ではなく惜しみない与え合いに、落ち着かない忙しさではなく安息に、抑圧ではなく自由に治められる世界です。それは聖い時を中心に築かれた社会であり、そこでは正義が一度きりの出来事ではなく、繰り返し訪れるリズムでした。解放と回復のこうしたパターンを通して、イスラエルの暦そのものが罪の贖いの道具となったのです。すべての時を罪の支配から救い出し、安息という神の園に加わらせる道となったのでした。
福音はどこにあるのでしょうか
イスラエルは、ヨベルを十分に生きることはありませんでした。聖い時によって自分たちの世界が造り変えられるのを、ついに許さなかったのです。しかしイエスは、待ち望まれていたヨベルがすでに到来したと宣言して来られました。それは暦の上の日付としてではなく、聖い場所に立つ聖い方として、です。
ルカの福音書 4章で、イエスは会堂に立ち、イザヤ書 61章を読んで告げられました。「主の御霊がわたしの上にある……主の恵みの年を宣べ伝えるために。」この恵みの年こそ、ヨベルの年です。イスラエルがついに実現できなかったことを、イエスは完成させるために来られました。
イエスによって、エデンの安息が戻ってきます。イエスが病人をいやし、悪霊に囚われた人々を解き放ち、貧しい人々に良い知らせを告げ知らせるとき、それはヨベルの新しい国が地上に来ようとしていることの宣言なのです。イエスは罪と死がもたらした壊れを解きほどき、平和といのちの新しいあり方をもたらしてくださいます。捕らわれた者を、罪と死という主人のもとから解放してくださいます。負債を取り消し、敵が私たちに突きつけていたすべての証書を無効にしてくださるのです(コロサイ人への手紙 2:13〜15)。そして、私たちが失った相続財産――新しい天と新しい地、私たちのまことの故郷――を返してくださいます。
イエスは、週に一日、あるいは五十年に一度の安息を約束されるだけではありません。終わることのない聖い時、永遠の安息日をもたらしてくださいます。イエスのうちで、働きと安息の、創造と回復のリズムが完成へと至るのです。私たちは今、ヨベルの中を生きています。時そのものが贖われた新しい創造の中を、です。
イエスによって、神は世界をもう一度ご自身の園として造り直しておられます。神のかたちに造られた聖い民が、神のご臨在に満ちた聖い場所に住み、罪が壊したものを回復する聖い時によって形づくられていくのです。古い世界の混乱は、神の国の平和に道を譲りつつあります。
ご自分の目で確かめてみましょう
時そのものを正義と回復の道具に変えてくださる神を見る目を、聖霊が与えてくださるよう祈ります。そして、イエスこそまことのヨベルであると見えるようになりますように。創造のリズムを回復し、捕らわれた者を自由にし、すべての負債を取り消し、終わることのない神の国の安息日の安息の中にいつまでも住むよう招いてくださる方なのです。

