ここで何が起きているのでしょうか
ナホム書の最後の二章には、バビロンの手によってニネベが陥落する幻、ニネベを嘲る六つの罵りの言葉、そしてこの大いなる都の滅亡を祝う皮肉に満ちた哀歌が記されています。
血のように赤い装いをまとった軍隊が、ニネベを打ち倒します(ナホム書 2:3)。これはバビロンの軍隊であり、預言者が記したエゼキエル書も、その軍服が赤いことを裏づけています(エゼキエル書 23:14)。ナホム書はまた、近くを流れる川の氾濫によってニネベが押し流されることも、正確に預言しています(ナホム書 2:6、8)。ニネベの守護神は運び去られ、祭司たちは泣き叫び、都の財宝は誰にでも奪い取られるままにさらされてしまうのです(ナホム書 2:7、9)。
ナホム書の六つの罵りの言葉は、いたって明快です。かつて狩る者であったアッシリアは、今度は狩られる者となります(ナホム書 2:13)。ニネベは血によって築かれたのですから、血へと帰っていきます(ナホム書 3:1、3)。ニネベは遊女のようにふるまったので、やがてその媚態はあらわにされます(ナホム書 3:4、5b)。アッシリアはかつてエジプトの都テーベを残虐に滅ぼしましたが(ナホム書 3:8)、自分たちが加えたその暴虐が、間もなく自らに返ってくるのです(ナホム書 3:10)。そして最後に、かつていなごのように征服し食い尽くした彼らは(ナホム書 3:16)、間もなくいなごのように消え去っていきます(ナホム書 3:17)。ニネベには良い知らせがありません。その滅びは避けられないのです。それゆえナホム書は、逃げ惑い息も絶えそうになっているニネベの兵士たちの姿を描く哀歌を歌い上げます(ナホム書 3:18)。そして全地がニネベの没落に拍手を送るのです。ナホム書が問いかけているように、「ニネベの悪を味わわなかった者が、地上のどこにいるだろうか」(ナホム書 3:19)というわけです。
聖書の中で、修辞的な問いかけで終わる書は二つしかありません。その一つがナホム書で、もう一つがヨナ書です(ヨナ書 4:11)。ヨナ書の問いかけもニネベについてのもので、神はご自身が望まれる相手に——たとえニネベの人々にでも——慈悲を示す権利を持っておられる、ということが語られています。しかしナホム書の問いかけが明らかにしているのは、ニネベがその神の慈悲を逆手に取って、さらなる残虐を重ねたという事実です。ニネベの悪は救いようがなく、神が彼らを地上から消し去られることについて、その正義を問う者は地上に誰もいないのです。
福音はどこにあるのでしょうか
ニネベに良い知らせはありません。ナホム書は、ニネベの残虐行為を償うための福音を何も差し出していません。これは、悪を行う者にやがて悔い改める機会がもはや与えられなくなる時が来る、という厳粛な事実を思い起こさせます。アッシリアはバビロンによって滅ぼされ、二度と立ち上がることはありませんでした。ですからナホム書の終わりにある良い知らせは、悪しき者、虐げる者、暴虐を行う者のためのものではなく、それ以外のすべての人のためのものなのです。
ニネベの圧政は世界中に及んでいました。だからこそ、神の民の敵がついに当然の報いを受けたとき、全世界が喜んだのです。ヨハネの黙示録にも、これと似た光景が描かれています。神はあらゆる悪の帝国の支配者たち——残虐行為の責めを負うすべての者、虐げるすべての者——を集め、彼らが流した罪なき者の血と傷つけた人々のために報復されます(ヨハネの黙示録 19:2)。そして神の民は、悪が永遠にさばかれたことを喜ぶのです(ヨハネの黙示録 19:3)。
バビロンがニネベに対して行ったことを、イエスがあらゆる悪に対して行われる日が、間近に迫っています。イエスは戦いを繰り広げられます(ヨハネの黙示録 19:11)。血のように赤い衣をまとい、征服する者として来られるのです(ヨハネの黙示録 19:13)。神ご自身の民に手を出そうとしたすべての国に向かって、馬に乗って出て行かれます(ヨハネの黙示録 19:15a)。この世から悪を打ち払い、王の王としてご自身を永遠に立てられるのです。そしてもはや敵のいない世界で、平和の君として永遠に治められます。
ご自分の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、圧政を終わらせるために来られる神を見ることができますように。そして、そのすべての民のために平和を確立することによってあらゆる悪に終わりをもたらそうと来られる方、それがイエスであると見えてきますように。

