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デボーション

ピリピ人への手紙 3章

ただイエスだけを誇る

ピリピ人への手紙3章から見えてくるのは、神との正しい関係が、私たちの差し出せるものによるのではなく、イエスがどなたであるか、そしてイエスが何を差し出してくださったかによるという真実です。

何が起こっているのでしょうか

ピリポの教会の一部の指導者たちが、パウロとその教えの信用を失わせようとしていました。彼らが代わりに教えていたのは、神との契約の関係に入るためには、ユダヤ人の特定の慣習を守らなければならない、ということでした。とりわけ彼らは、イエスに従う者たちが割礼を受けることを要求します。割礼はユダヤ人としての身分を決定づけるしるしだったからです。しかしパウロはこれをきっぱりと拒みます(ピリピ人への手紙 3:2)。彼自身、割礼を受けた者でありながら、神の家族に属する契約の一員とされるのは、ユダヤ人としての身分を示すしるしによってではなく、まったくイエスによるのだと書き記しているのです(ピリピ人への手紙 3:3)。

イエスに出会う前のパウロは、まさにこの教師たちと同じことを信じていました。彼は歴史を通して歩んできた神の民の身分のしるしを、ことごとく備えていた人物です。トーラーが定めたしるしによって契約に属していると主張できる者がいるとすれば、それはパウロでした(ピリピ人への手紙 3:4〜6)。ところが、かつては神に選ばれた家族の一員である証しだと考えていたすべてを、今では損失と見なしています。イエスを知るという価値に比べれば、他のいっさいは無価値なのです(ピリピ人への手紙 3:7〜8)。

パウロはその理由を説き明かします。トーラーは、契約に属するための最終的な手段では決してありませんでした。それらのしるしは常に、諸国の民を神の家族へと集め入れる、来たるべきアブラハムの子を指し示していたのです。イエスこそ、その子です。契約に属することは今、イエスを通して与えられます。律法が示した身分のしるしによるのではありません(ピリピ人への手紙 3:9)。

そしてこのイエスへの信頼が、パウロのもっとも深い願いをかたちづくっていきます。彼はもはや理想的なユダヤ人に造り上げられることを望みません。願うのは、イエスに似た者とされることです。イエスこそ理想の人間、肉となった神のかたちだからです。パウロはイエスを深く親しく知り、そのご性質を映し出し、その苦しみにあずかり、必要ならばイエスと同じ死を死ぬことさえ願っています(ピリピ人への手紙 3:10)。イエスの死に似た者となることは、パウロにとって損失ではありません。真に神のかたちを帯びておられる方のかたちへと造り変えられる特権なのです(ピリピ人への手紙 3:11)。

これこそパウロが目標として走り続けているものです。契約に属すること、自分が何者であるかということ、そして造り変えられていくこと、そのすべての源はただイエスだけであって、他のどんな人間的なアイデンティティや文化的なしるしでもありません(ピリピ人への手紙 3:12)。

パウロはさらに踏み込みます。神の家族に入る道として割礼を誇る人たちは、実のところイエスに敵対して働いているのです。神との契約の関係に入る別の道を差し出すことは、律法がまさに指し示していたその方と対立する立場に自分を置くことになります(ピリピ人への手紙 3:18〜19)。この地上のどんなものも、身分のしるしも、トーラーのしるしも、人間の功績も、だれかを神の家族の一員にすることはできません。それができるのはイエスだけです。そしてある日、イエスは再び来られ、私たちの弱い体をご自身の栄光のかたちへと変えてくださいます(ピリピ人への手紙 3:20〜21)。

その日、神の家族は、あらゆる民族から集められ、ただイエスによって完成するのです。

福音はどこにあるのでしょうか

私たちの心は生まれつき、イエス以外の何かによって契約に属そうと求めてしまいます。伝統、自分が何者であるかというアイデンティティ、道徳、あるいは自分の実績です。私たちは本能的に、自分が「内側にいる」ことを示す何かにしがみつこうとします。けれども神の契約の家族は、いつでも約束によって造られてきました。人間の優秀さによってではありません。

イエスはそのことをこの上なく美しく示してくださいました。地上での働きの中で、イエスは罪人たちを、つまり宗教の世界がまさに排除していた人たちを迎え入れられました。パリサイ人たちはそれに憤慨しましたが、イエスは「公正な人」のためではなく罪人のために来たのだと言われました(マルコの福音書 2:17)。契約に属することは、勝ち取るものではありません。与えられるものです。しかもそれは、ただイエスにおいて与えられるのです。

パウロはこれを身をもって知っていました。彼は考えられるかぎりの契約のしるしと宗教的な資格をすべて備えていました。しかし、そのどれ一つも彼を神の家族に入れることはできませんでした。それどころか、イエスを信頼すること、そのご生涯と死と復活だけが人を神と結び合わせるという真実から、彼の目をそらせていたのです(ピリピ人への手紙 3:9〜10)。パウロが他の箇所で語っているように、救いは恵みによるもので、信仰を通して与えられ、私たち自身から出たものではありません(エペソ人への手紙 2:8〜9)。

こうして、パウロがなぜイエスのかたちに似た者とされることを切に願うのかが見えてきます。
神の契約の家族に属するとは、そのかしらである方、真の神のかたちであるイエスに似た姿へと回復されることです。パウロは他のどんな人間的な基準にも形づくられたくないと願っています。民族でもなく、伝統でもなく、功績でもありません。彼が形づくられたいと願うのは、理想の人間であるイエスのご生涯、苦しみ、死、そして復活そのものへと、なのです(ピリピ人への手紙 3:10〜11)。

イエスは契約をあらゆる民族に開き、ご自身のかたちにかたどった新しい人類を造り出してくださいました。それこそが福音です。イエスは罪人を迎え入れ、ご自身に似た姿へと造り変え、そして永遠に神の家族の中へと導き入れてくださるのです。

ご自身で確かめてみましょう

聖霊があなたの目を開いてくださり、ただイエスによってご自身の契約の家族へと迎え入れてくださる神が見えてきますように、と祈ります。そして、イエスがその家族に迎え入れてくださるだけでなく、ご自身のかたちへと造り変えてくださる方であることが見えてきますように。

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