何が起こっているのでしょうか
イエスの兄弟であるヤコブは、聖書を「自由を与える完全な律法」と呼んだばかりです(ヤコブの手紙 1:25)。イスラエルの歴史を振り返ると、神が律法をお与えになったのは、エジプトの奴隷状態からイスラエルを解放された後のことでした(出エジプト記 20:2)。律法は奴隷の時代の終わりと、自由の時代の始まりを刻むものだったのです。神の律法は、神の民がどのように自由な者となり、自由であり続けるかを教えてくれます。従うこと、それが自由に生きることなのです。
そして自由にされた民であるなら、その姿がにじみ出ていなければなりません。この手紙の中でヤコブは、自由な人はえこひいきをせず、自由な人は社会の隅に追いやられた人々を大切にすると語ります(ヤコブの手紙 1:27、2:1)。そうしないことは、イエスがご自分の民を奴隷状態から解放してくださったという事実を否定することになります。ヤコブはそれを分かりやすく示すために、二人の見知らぬ人が教会に入ってくる場面を描きます。一人は明らかに富んだ人、もう一人は明らかに貧しい人です。ところが富んだ人はすぐに上席へ案内され、貧しい人は床に座るように言われてしまいます(ヤコブの手紙 2:2〜3)。しかしこのようなえこひいきは、神の国にまだ奴隷がいるかのように振る舞うことなのです。
イエスは特に、この世の貧しい人々を解放して、御国を受け継ぐ者としてくださいました(ヤコブの手紙 2:5)。貧しい人を床に座らせるのは、その人を奴隷のように扱い、イエスがその人たちに与えてくださった相続の分を否定することです。それに歴史をたどれば、神の民を虐げ、訴えてきたのは富んだ人たちでした(ヤコブの手紙 2:6)。イエスの名をそしり、その民の信用を傷つける人々を優遇するのは、まったく分別のない判断だと言えるでしょう(ヤコブの手紙 2:7)。しかも、自ら貧しくなられた神に従いながら、貧しい人は神の教会で良い席に座るに値しないと判断するのは、偽善そのものです(コリント人への手紙Ⅱ 8:9)。
えこひいきは、奴隷状態からの自由を否定するだけでなく、ヤコブが王イエスの「王の律法」と呼ぶものに対する犯罪でもあります。イエスは、すべての隣人を自分自身のように愛しなさいと語られました(ヤコブの手紙 2:8)。一部の人だけが自分の心配りや関心に値すると判断するなら、イエスの目には「律法を破る者」となってしまいます(ヤコブの手紙 2:9)。ほかのすべての律法を守っていたとしても、それは関係ありません。聖書の律法はすべて王イエスがお書きになったものであり、その一つ一つが、すべての人が慈悲をもって扱われることを願う主の心を映し出しているからです。隣人に対して一つの律法を破ることは、そのすべてを破ることなのです(ヤコブの手紙 2:10〜11)。人を殺していなくても、えこひいきを続けるなら同じことです。私たちはやはり、イエスの王の律法である慈悲を破った者となります。ですから、慈悲の欠如はさばきを招き、隅に追いやられた人々への慈悲は自由をもたらすと知っている者らしく歩んでいきましょう(ヤコブの手紙 2:12〜13)。
福音はどこにあるのでしょうか
私たちはしばしば、自由とは自分の行動を縛る律法がないことだと考えます。縛られているなら、本当の自分らしく生きる自由は決して得られない、と思ってしまうのです。けれども神の律法は、究極的には束縛ではありません。私たちを造られたのは神です。神の律法とは、神が意図された本当の自分になるための道筋なのです。神は私たちを、えこひいきをせず、公平で、行動するたびに正義を行う者として造られました。ですから神の律法に従うなら、私たちは完全に自由になるのです。
よく知られているように、イエスはイスラエルに与えられたすべての律法を二つにまとめられました。心を尽くして神を愛すること、そして隣人を自分自身のように愛することです(マルコの福音書 12:30〜31)。真に自由になる一つの道は、富んだ人と貧しい人の間でえこひいきすることを拒むことです。しかしもっと広く言えば、神を愛し、互いを愛するほどに、私たちはますます自由になっていくのです。
ヤコブはまた、イエスを「律法を与える方」と呼びました。そしてイエスの律法は「慈悲」という一言にまとめられると語ります。これは最大限に自由でありたいと願う人にとって、本当に良い知らせです。なぜなら、他者に慈悲を示そうとする歩みに、神は何の制約も限界も設けておられないからです(ガラテヤ人への手紙 5:23)。ですから、奴隷であった日々はもう終わったのだという者らしく歩みましょう。自由になり、えこひいきをせず、隣人を愛し、慈悲を示していきましょう。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、えこひいきをなさらない神を見ることができますようにとお祈りします。そして、分け隔てなくご自分の民を自由にしてくださる方として、イエスを仰ぐことができますように。


