何が起こっているのでしょうか
ゼパニヤは、神がやがて火をもって世界をきよめると預言します(ゼパニヤ書 3:8)。そして悪と高慢に代わって、聖く謙遜な少数の者たちが、神の愛と守りを味わうことになるのです(ゼパニヤ書 3:17)。
とりわけ神は、世界の言葉をきよめてくださいます(ゼパニヤ書 3:9)。火のあとには、もはや人々は周囲の高慢な国々のように傲慢に語ることはありません。敬意とへりくだりをもって神をあがめ、一つに結ばれた民として神に仕えるようになるのです(ゼパニヤ書 3:8)。かつて神が地の全面に散らされた者たちはみな帰って来て、自分の言葉と語りをもって神を賛美します(ゼパニヤ書 3:10)。
高慢な者が取り除かれたあと、エルサレムは世界の謙遜な少数者のための新しい都となり、二度と征服されることはありません(ゼパニヤ書 3:11〜12)。この新しいエルサレムの城壁の内側に住む者はみな神をあがめます。その舌から偽りが取り除かれ、真実で満たされるからです(ゼパニヤ書 3:13a)。エルサレムがさばきや火を恐れる必要は、もう決してありません。傲慢な力はすべて退けられるか、あるいは同じくへりくだった友へと変えられているからです(ゼパニヤ書 3:14〜15)。
火のあと、神はご自分の民に近づき、慰めてくださいます。喜びをもって謙遜な者の上に歌い、愛をもって不安な心を静めてくださるのです(ゼパニヤ書 3:17)。神の歌は、高慢と傲慢の終わりを約束します(ゼパニヤ書 3:18)。神は、足の不自由な者への回復と、はずかしめを受け、追い出された者への誉れを歌われます(ゼパニヤ書 3:19)。そして最後に神は、聖く謙遜なご自分の民を公に集め、新しい住まいへと導くと約束されます。そこでは、神が彼らのためにしてくださったことを、だれも否定できないのです(ゼパニヤ書 3:20)。
福音はどこにあるのでしょうか
世界の歴史の初め、地上の人々は一つの言葉のもとに結ばれていました(創世記 11:1)。ところが人間は、その共通の言葉を使って、神と、ご自分の民と約束を地の全面に広げようとされる神の計画に逆らったのです(創世記 11:4)。正当な怒りのうちに、神は彼らの言葉を分けられ、人間が人間の高慢という共通の言葉のもとに結束することを阻まれました(創世記 11:6〜7、9)。しかし残念なことに、どの国も民も、神に逆らい、へりくだった者を虐げるための新しい言葉と手段を生み出していきました。それでもゼパニヤは、もう一度火の日が下って地の高慢な言葉が打ち砕かれたのち、謙遜な者たちがついに安全に住まうと預言するのです。
その火の日は、イエスが死なれてから五十日後に起こりました。五旬節の日です(使徒の働き 2:3)。ゼパニヤが預言したとおり、地のあらゆる所から散らされていた少数の者たちがエルサレムに集められていました(使徒の働き 2:5)。神が現れたのは、高慢な言葉を滅ぼすねたみの火としてではなく、すべての人に理解できる言葉で良い知らせを語る、炎のような舌としてでした(使徒の働き 2:3〜4、6)。偽りが取り除かれ、真実に満たされた神の新しい聖く謙遜な少数者は、イエスが死者の中からよみがえられたという良い知らせを宣べ伝えたのです(使徒の働き 2:22〜24)。喜びと愛のうちに、神の火の舌は、平和と勝利の歌をもってエルサレムの謙遜な者たちを静めました。
私たちにも、今なおこの慰めが必要です。だからこそ、神がへりくだった民を慰めるために近づいてくださるというゼパニヤの預言は、良い知らせなのです。イエスの名の一つはインマヌエル、すなわち「神は私たちと共におられる」という意味です(マタイの福音書 1:23)。そして炎のような舌が示したように、イエスは単に私たちの近くにおられるのではなく、私たちの内におられます。私たちは聖霊に満たされているのです。使徒ヨハネは聖霊を、私たちに平和を与えるという役割を担う助け主と呼んでいます(ヨハネの福音書 14:26〜27)。ですから、もしへりくだる思いがあり、自分の高慢や力では願うものを手にできないと認める思いがあり、イエスが死者の中からよみがえられたと認める思いがあるなら、神はこの真理をあなたの上に歌ってくださいます。あなたはもう、傲慢も敵も死も存在しない永遠の御国の市民なのです、と。
ご自身の目で確かめてみましょう
聖霊が目を開いてくださり、火をとおして語られる神を見ることができますようにと祈ります。そしてイエスが、その愛の歌によってあなたの魂を静めてくださる助け主であることが見えてきますように。


