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デボーション

ゼパニヤ書 1:1〜2:3

主の日の滅び

ゼパニヤ書 1:1〜2:3から見えてくるのは、やがて神が創造を打ち消すことをやめられるという事実です。なぜなら、創造主ご自身が私たちのために打ち消されるからです。神はご自分の民を犠牲とはせず、イエスにおいてご自身を犠牲とされました。

何が起こっているのでしょうか

神が初めに地を造られたとき、二つの被造物を選び出し、ご自分の道徳的な無垢と愛と寛大さをこの世界に映し出す者とされた、と語られています(創世記 1:28)。神は、人間だけを神のかたちとしてお選びになったのです。ところが、神のかたちを最初に担った者たちは高慢に陥り、その召しを投げ捨ててしまいました。その日から、世界は破滅へと向かうことになりました(創世記 3:16〜19)。預言者ゼパニヤは、その歴史がまさに繰り返されようとしていると警告します。近い将来のある日、神は一つの帝国を起こし、ユダの、そして世界のほかの指導者たちの高慢と暴虐と偶像礼拝に終わりをもたらされるのです。ゼパニヤはその日を「主の日」と呼びます(ゼパニヤ書 1:7)。それは、神が地を訪れられる日です。ただし、造るためではなく、造られたものを打ち消すためです。神は、ご自分を映すことに失敗した神のかたちのすべてを、造られなかったもののようにされます(創世記 1:26、ゼパニヤ書 1:3)。

一つの国民としてユダは、世界が見つめる中で神の無垢と愛と寛大さを映し出すはずでした。しかし、それに失敗したのです(ゼパニヤ書 1:4)。それどころか、民は星々を拝むための祭壇を築き、バアルやモレクという神々の像にひざまずきました(ゼパニヤ書 1:5〜6)。神に選ばれた国民は自らの召しを投げ捨て、その失敗が再び地を破滅へと引き込もうとしています。神のかたちが初めてこのように失敗したとき、神は動物を犠牲としてささげ、それでもなお誠実であり続けることを示されました(創世記 3:21)。ところが今、神はご自分の民を犠牲にすると言われます(ゼパニヤ書 1:8)。主の日に、神は王たち、君主たち、指導者たちを、犠牲の食事のように食い尽くされるのです(ゼパニヤ書 1:9〜13)。 

具体的には、主の日における創造の打ち消しと犠牲は、戦争という形でやって来ます(ゼパニヤ書 1:14)。やがてバビロン帝国が、ユダに対する、そしてエルサレムの偶像礼拝的な忘恩と高慢をまねたすべての国々に対する、神の怒りの器となるのです(ゼパニヤ書 1:15〜16)。神の戦いの日、バビロンの軍隊が人々を切り裂き、その血を流し尽くす中で、世界はその惨劇に打ちのめされ、盲人のように手探りで歩くことになります(ゼパニヤ書 1:17)。神の燃える激情が、バビロンの軍隊を通して地を焼き尽くすのです(ゼパニヤ書 1:18)。 

しかし、世界にとって避けられないこの滅びの日は、神の民すべての滅びを意味するわけではありません。ゼパニヤの預言は、聞こうとする者たちへの警告なのです(ゼパニヤ書 2:1〜2)。確かに、彼らの知る世界は終わり、ユダは倒れます。それでも主の日の間、へりくだる者は守られるのです(ゼパニヤ書 2:3)。 

福音はどこにあるのでしょうか

ゼパニヤが預言したのはヨシヤの時代だったと記されています(ゼパニヤ書 1:1)。ヨシヤは長く失われていた神の律法の写本を見いだし、ユダの罪がどれほど深いかを知って恐れおののきました(列王記Ⅱ 22:13)。ヨシヤはただちに、ほかの神々の像を打ち壊しました。しかし、神の道徳的な無垢と愛と寛大さを表そうとしたヨシヤの姿勢は、ヨシヤ自身を救うだけでした(列王記Ⅱ 22:16)。積み重なったユダの失敗に対する、避けられない主の日を止めることはできなかったのです(列王記Ⅱ 22:19)。バビロンはなお迫っていました。どうやら、代表となるわずかな者たちの罪が、国全体を、いや人類全体をさえ罪あるものとしてしまうのです。しかし、良い王の従順は一世代しか続きません。 

ヨシヤは自分の王国を救えませんでした。けれども、イエスは救われました。イエスは、神の道徳的な無垢と愛と寛大さをこの世界に映し出すという役目を、進んで引き受けられたのです(ヘブル人への手紙 1:3)。ご自分の民のための犠牲となることを意味していたときでさえ、イエスはその召しを投げ捨てることを拒まれました(ルカの福音書 22:42)。そして、公正な怒りに燃える戦士のように、イエスは十字架の上で偶像礼拝と高慢に戦いを挑まれたのです。ゼパニヤが語ったさばきの、戦時の恐怖はすべて現実となりました(マタイの福音書 27:51〜52a)。ただし、それはイエスがご自分の民に下されたのではなく、ご自身の上に下されたのです。イエスはローマの軍隊が死をもってその目を暗くし、その体から血を流し尽くすことを許されました。それは、神の燃える激情が完全に燃え尽きたことを、私たちが知るためでした。神はもはや創造を打ち消されません。創造主ご自身が、私たちのために打ち消されたからです。神はご自分の民を犠牲とはされません。ご自身を犠牲とされたからです。へりくだる者が守られるために、イエスが主の日を身に受けてくださったのです。

ヨシヤが失敗したところで、イエスはご自分の王国を救われます。それは、イエスが死者の中からよみがえられたからです。ヨシヤの従順は自分のいのちを守りましたが、イエスの従順は死の後さえも守り抜きます。イエスは二度と死ぬことがありません。混乱と破滅と死が、代表となるわずかな者たちの罪を通してこの世界に入り込んだのと同じように、イエスの復活はこの世界の希望を代表しています(コリント人への手紙Ⅰ 15:20〜22)。イエスは、復活によって主の日から守られる最初の方にすぎません(コリント人への手紙Ⅰ 15:23)。神のかたちを広げるという召しを受け入れる人はみな、高慢も死ももはや住むことのない、新しく造り直された世界へと招かれているのです(コリント人への手紙Ⅰ 15:24〜25)。

ご自身の目で確かめてみましょう

聖霊が目を開いてくださり、滅びをもたらされる神を見ることができますように。そして、へりくだる者がその王国を受け継ぐために、食い尽くされ、犠牲とされたイエスを見いだせますように。 

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