ここで何が起こっているのでしょうか
パウロはこの手紙を、心からの個人的な訴えで閉じています。これまで警告し、正し、自らを弁明し、コリント人に懇願してきました。そして今、そのすべての目的をはっきりと思い起こさせます——パウロはコリントへ行こうとしているのです(コリント人への手紙Ⅱ 12:14、13:1)。三度目のコリント訪問を、コリント人にとって最終的な決断の時としたい——それがパウロの願いでした。教会はイエスの真の使徒としてパウロを迎える備えができているでしょうか。それとも、悔い改めのない罪、分裂、そしてパウロがあざけるように「偉大な使徒たち」と呼んだ偽教師たちの影響と、対決せざるを得なくなるのでしょうか。
最後にもう一度だけ、パウロはためらいながらも、立派な指導者の資格を見たがるコリント人の愚かな求めに付き合ってみせます(コリント人への手紙Ⅱ 12:11)。いわゆる「偉大な使徒たち」と自分を区別し、自らの弱さを誇ることによってイエスの力を際立たせるのです。自分は何者でもないけれども、神は自分を通して、彼らが求めていたような奇跡のしるしや不思議を行ってこられたと語ります(コリント人への手紙Ⅱ 12:12)。コリント人は、教会に対して自分の力を振りかざす「偉大な使徒たち」を経済的に支えてきました。しかしパウロは、偽教師たち以上に支援を受けるにふさわしい者でありながら、宣教のためにコリント人からお金を受け取ったことは一度もありませんでした(コリント人への手紙Ⅱ 12:14〜16)。そして皮肉を込めて、報酬を求めなかったことを——そうすればもっと敬ってもらえたのに——謝ってみせます(コリント人への手紙Ⅱ 12:13)。けれども、そうさせなかったのはコリント人への深い愛でした。パウロは彼らの霊的な父なのです。そして子どもを支えるのは父であって、父を支えるのが子どもではありません(コリント人への手紙Ⅱ 12:14〜15)。
パウロは自己弁護をしているのではありません。次の訪問までに生き方を変え、偽教師たちを取り除いてほしいと、霊の子どもたちに必死に願っているのです(コリント人への手紙Ⅱ 12:19)。事態の深刻さを示すために、申命記の律法を引き合いに出します。「すべてのことは、二人か三人の証人の証言によって確定されなければならない」(コリント人への手紙Ⅱ 13:1)。これまでの二度の訪問が、コリント人の解決されていない罪に対する二人の証人となります。そして三度目のこの訪問が、最終的な証拠となるのです。もし教会がなお性的な罪、分裂、欺きから立ち返ることを拒むなら、パウロは心を痛めながらも、断固としてその張本人たちを教会から除くことになります(コリント人への手紙Ⅱ 12:20〜21、13:2)。というのも、パウロは自分の力で事に当たるのではなく、ご自身の教会の中で働いておられるイエスの力によって行動するからです。イエスが墓の弱さの中から力をもってよみがえられたのと同じ確かさで、イエスはパウロの弱さを用いて、コリント人に力強く対処されるのです(コリント人への手紙Ⅱ 13:3〜4)。
けれども、パウロが到着したときに目指しているのは、対決ではなく回復です。パウロは教会に、自分自身を吟味し、イエスご自身が自分たちの間に生きておられ、自分たちを変えてくださっていることを確かめるように告げます(コリント人への手紙Ⅱ 13:5)。吟味を通してイエスの聖い臨在を仰ぐ人はみな、変えられていく経験をするのです。議論に勝つことにも、自分の権威を主張することにも関心はありません。パウロが望んでいるのは、教会が聖く、健やかで、イエスの御前に立つ備えができていることです。これまで書いてきたすべてのこと、最も厳しい言葉さえも、彼らを打ち倒すためではなく、建て上げるためのものでした(コリント人への手紙Ⅱ 13:10)。
そこでパウロは、到着したときにこう見たいと祈っている光景を描いて筆を置きます。罪から立ち返り、偽教師たちとの関係を断ち、喜びと平和と一致を受け入れた教会に出会いたい——それがパウロの願いでした(コリント人への手紙Ⅱ 13:11)。訪ねたいのは、自分を迎える備えのできた家族——そして何より、イエスを迎える備えのできた家族なのです。
福音はどこにあるのでしょうか
間近に迫ったパウロの到来は、もう一つの、はるかに重く、はるかにすばらしい到来を指し示しています。コリント人がパウロを迎える備えをするよう召されたように、私たちもイエスを迎える備えをするよう召されているのです。イエスもパウロと同じように、へりくだりと力とをあわせ持って来られます。弱さのうちに十字架につけられましたが、今は神の力をもって治めておられます(コリント人への手紙Ⅱ 13:4)。そして、再び来られるのです。
これはイエスに信頼するすべての人にとっての良い知らせです。イエスは「偉大な使徒たち」のように、支払いを取り立てたり、私たちの献身を利用したりするために来られるのではありません。パウロが自分の到来について語ってきた、そのすべての姿で来てくださるのです。花嫁のもとに来る花婿のように(ヨハネの黙示録 19:7、コリント人への手紙Ⅱ 11:2)、子どもたちのもとに来る父のように(ヨハネの福音書 14:18、コリント人への手紙Ⅱ 12:14〜15)、愛する友たちと共にいるために来る友のように(ヨハネの福音書 15:15、コリント人への手紙Ⅱ 7:2〜3)。
けれども、パウロが到着前に家を整えておくようコリント人に警告したように、イエスもまた私たちに備えるよう呼びかけておられます。私たちは教会、すなわちイエスに愛された者たちです。そしてイエスの願いは、私たちが輝き、聖く、備えのできた姿で見いだされることなのです(ヨハネの黙示録 19:7〜8)。だからこそ、パウロがコリントの回復を切望したのは、単に個人的な願いにとどまりません。それは、ご自身の民に向けられたイエスの心の響きなのです。イエスは、私たちを滅ぼすものの痕跡をすべて取り除きたいと願っておられます。そしてすでに、私たちのうちに住まわれる御霊によって、その働きを始めておられます。パウロが言うように、「イエスはあなたのうちにおられる」——今このときも、その到来に向けて、あなたを清め、備えてくださっているのです。
ですから、罪への一つ一つの気づき、悔い改めたいという一つ一つの願い、喜びと平和へ向かう一つ一つの歩みは、イエスがあなたのうちに働いておられる証拠なのです。今日、共にいてくださるその臨在が、明日の再臨に向けてあなたを整えてくださっています。そしてイエスが来られるとき、あなたを打ち倒すのではなく、ご自身のうちへと建て上げ、ご自分のものとして迎えてくださるのです。
ご自身の目で見てみましょう
聖霊があなたの目を開いてくださり、私たちを恥じ入らせるためではなく回復させるために、愛をもって向き合ってくださる神を見ることができますように。そして、力と愛をもって私たちのもとに来られる方——今、その臨在によって私たちを清め、再臨の喜びに向けて備えてくださる方——として、イエスを仰ぐことができますように。

