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デボーション

コリント人への手紙Ⅱ 1:1〜2:11

苦しみは慰めへと導く

コリント人への手紙Ⅱ 1:1〜2:11には、イエスが私たちの苦しみに加わってくださったからこそ、私たちも復活の慰めにあずかれることが示されています。そして神の真実さは、イエスの死と復活によって保証されているのです。

何が起こっているのでしょうか

使徒パウロがコリントに建てた教会は、今、苦境の中にあります。偽教師たちが、真理を語る信頼できる説教者としてのパウロの信用を揺るがしているのです。さらに、予定していたコリント訪問が実現しなかったことも、コリント人たちのパウロへの信頼にいっそうの疑いを植えつけました。彼らは、パウロが自分たちを見捨てたのか、それともまだ怒っているのかと考え、偽教師たちはその落胆をあおり立てました。偽教師たちは、パウロは約束を破って自分たちを見放したのだとコリントのクリスチャンたちに言いふらし、その人格そのものを疑わせたのです。さらに彼らは、パウロの数々の苦難は彼を見栄えのしない者にしているばかりか、本当に神の代弁者なのかを疑わせるものだと主張しました。そこでパウロは、愛する教会に向けて、自分は彼らを見捨ててなどいないこと、自らの苦しみこそ使徒としての務めを裏づけるものであること、いや実に、苦しみを受けられた御子イエスによって神と共に生きる歩みにおいて、苦しみは欠かせない一部であることを示すために、私たちがコリント人への手紙Ⅱとして知る手紙を書き送りました。

パウロは自らの苦しみを、イエスの苦しみに根ざしたものとして語ります。イエスにおいて、御子なる神は慈悲深くも、ご自分が創造されたものの苦しみにご自身を結び合わせてくださいました。それは、ご自分の民を、ご臨在と復活の慰めに結び合わせるためでした(コリント人への手紙Ⅱ 1:3〜4)。コリント人たちが苦しむとき、彼らは見捨てられているのではなく、イエスに結ばれ、その慰めに一つとされているのです(コリント人への手紙Ⅱ 1:5)。パウロは自分自身の試練も、同じレンズを通して見ています。イエスが人類の痛みの中に入って来られたように、パウロもコリント人たちの苦難の中に入って行きました(コリント人への手紙Ⅱ 1:6)。彼が受けた迫害、困難、死に瀕した経験は、宣教の務めから彼を失格させるものではなく、むしろイエスの生と死にあずかっている証拠なのです(コリント人への手紙Ⅱ 1:8〜10)。彼の苦しみは、コリント人たちとのつながりを弱めるどころか、かえって深めています。苦しみのゆえに、パウロは彼らが直面している迫害に共にあずかることができ、コリント人たちもまた、迫害の中にあるパウロのために祈ることで彼に加わることができるのです(コリント人への手紙Ⅱ 1:11)。コリントにおいて、苦しみはパウロの権威を損なうものではなく、それを確立するものなのです。

続けてパウロは、コリント教会の益のために、知恵をもって旅程を変更したのだと説明します(コリント人への手紙Ⅱ 1:12〜14)。訪問を延ばしたのは悪意や偽りからではなく、愛する教会をもう一度つらい訪問にさらすことがないようにするためでした(コリント人への手紙Ⅱ 2:1)。パウロは、すでに手紙で指摘していた破壊的な生き方や偽りの教えから彼らが悔い改めるための時間を与えていたのです(コリント人への手紙Ⅱ 2:3)。何といっても、前回パウロが書き送った手紙は厳しいものであり、涙と痛みのうちに書かれたものでした。パウロの希望は、次にコリントを訪ねるとき、共に過ごす時が苦難と苦悩ではなく喜びと愛に満たされることでした(コリント人への手紙Ⅱ 2:4)。苦しみが慰めへと導くように、叱責は悔い改めへと導くのです。

最後にパウロは、自分が彼らに対して取ってきた態度と同じように、互いに接するようコリント人たちに勧めます。コリントには、前回の厳しい手紙で取り上げられた人々が悔い改めた後でさえ、彼らを受け入れようとしない人たちがいました(コリント人への手紙Ⅱ 2:6)。彼らはおそらく、赦して再び受け入れる前に、パウロが戻って来るのを待っていたのでしょう。しかしパウロの意図は、コリント人たちを叱責し続けることではなく、教会が愛のうちに一つに結ばれた交わりへと回復されることでした(コリント人への手紙Ⅱ 2:7)。パウロは教会に、あなたがたが赦す人を私も赦すと告げています(コリント人への手紙Ⅱ 2:8〜10)。

福音はどこにあるのでしょうか

苦しみは、ほかの何ものにもできない仕方で私たちをイエスに結び合わせるからこそ、最も大きな慰めへと導きます。困難は私たちを自分自身への依存から引き離し、希望のすべてを神に置くよう迫ります。パウロが、神は自分を苦しみへと導かれたと語ったのは、まさにこのためでした(コリント人への手紙Ⅱ 1:9)。イエスは、神がご自分を救い出し、復活において慰めてくださることを知りつつ、死と墓とを味わわれました。私たちがイエスのように、またイエスと共に苦しむとき、私たちはイエスと共に、痛みと死から慈悲深く私たちをよみがえらせてくださる神のうちにのみ慰めを見いだすのです。イエスの死の苦しみに共にあずかるなら、その復活の慰めにもまた共にあずかることになります(ローマ人への手紙 6:5、8)。そして、それを必ず実現してくださる神に信頼することができるのです。

パウロの信頼に足る姿は、それをはるかに超える神の真実さを人間のかたちで映し出すものです(コリント人への手紙Ⅱ 1:18)。彼がコリントに姿を見せなかったことは、いい加減さの表れではなく、愛の表れでした。同時に「はい」と「いいえ」を言うような態度ではなかったのです(コリント人への手紙Ⅱ 1:15〜17)。同じように神も、イエスにおいて、ご自分のなさる約束のすべてが神の愛によって保証されていることを示してくださいました(コリント人への手紙Ⅱ 1:20)。神は、最も信じがたい約束——イエスを死者の中からよみがえらせるという約束——において誠実であられたからです。イエスにあって、神はご自分のなさったすべての約束を必ず果たしてくださいます。この保証が確かなのは、神が私たちに聖霊を与えてくださったからです(コリント人への手紙Ⅱ 1:22)。私たちはイエスにあって神と深く結ばれ、神は実に私たちのうちに住んでくださり、聖霊によって、私たちは復活のいのちへと証印を押されているのです。イエスの死の苦しみに共にあずかるとき、その聖霊の力によって、復活にも共にあずかることになる——この事実に慰めを見いだすことができます。 

ご自分の目で確かめてみましょう

聖霊が目を開いてくださり、あらゆる苦しみと死を貫いて信頼に値する神を見ることができますように。そして、神の慰めの約束のすべてが「はい、アーメン」となることを保証するために、私たちの苦しみに共に加わってくださった方としてイエスを仰ぐことができますように。

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