何が起こっているのでしょうか
マルコの福音書が語っているのは、ただ一つのこと――「神の子イエス・キリストの福音」です(マルコの福音書 1:1)。けれどもマルコは、イエスやその良い知らせから書き始めるのではなく、バプテスマのヨハネから語り始めます。
預言者イザヤは、主が来られる前に、荒野で道を備える使者が現れると語りました。ヨハネこそその使者であり、そのメッセージは、自分よりも偉大な方が来られると宣言するものでした(マルコの福音書 1:7)。ヨハネは、自分が授ける洗礼が新しくされることの外側のしるしであると理解していました。そして、来られる主は、聖霊によって内側からの新しさをもたらしてくださるのです。
この神のご臨在は、至聖所の中に閉じ込められ、大祭司以外のだれも近づくことができませんでした。ところがヨハネは、それがまさに外へと突き破り、近づいて来ようとしていると宣言したのです。人々は自分の罪を悔い改めて、心を備えなければなりませんでした(マルコの福音書 1:4)。
ヨハネが宣べ伝えているそのとき、イエスが現れ、ヨハネから洗礼を受けられます。水から上がられた瞬間、天が裂け、聖霊が鳩のようにイエスの上に下り、天からの声が、イエスは神の心にかなう愛する子であると告げました(マルコの福音書 1:11)。 ヨハネが宣べ伝えてきた「新しくされること」が、イエスというお方として、目の前におられたのです。
サタンの誘惑に打ち勝った後、イエスはこのメッセージを宣べ伝え始められます。「時が来た。神の国は近づいた。悔い改めて、良い知らせを信じなさい」(マルコの福音書 1:15)。
そしてイエスは、この新しい王国の最初の民を招かれます。それは、従って来なさいという招きに応えた、四人の素朴な漁師たちでした。
ここで用いられている「王国」の言葉づかいに、しっかりと目を留めてみましょう。サムエルがダビデをイスラエルの王として油を注いだように(サムエル記Ⅰ 16:13)、神は川でイエスに油を注ぎ、王としての支配を始めさせられます。
そしてダビデがゴリヤテを打ち倒したように、イエスもサタンを打ち破られます(サムエル記Ⅰ 17:50)。王に油が注がれました。敵は打ち負かされました。いよいよ王が治められる時です。
さらに、すべての王がそうするように、イエスも王国の務めを担う側近の者たちを集められます。それがイエスの弟子たちです(マルコの福音書 1:17)。
福音はどこにあるのでしょうか
イスラエルには、神に召されながらもみことばに従って生きることができなかった王たちの長い歴史がありました。イザヤをはじめ預言者たちは、神ご自身が来られ、この世界にご自分の支配を確立される日を、希望をもって待ち望んでいました。そしてイエスにおいて、待ち焦がれてきた王国が到来したのです。
マルコはその福音書の中で「裂ける」という言葉を二度使っています。一度はここ、イエスの上で天が裂けたときであり、もう一度は神殿の幕が二つに裂けたときです。どちらの場面でも、神はこの世界に突き入ってこられます。まずイエスの上にとどまるために、そして次にはイエスの死を通して、ご自分の民一人一人の上にとどまるためにです。
イエスが洗礼のときに受けられた祝福の宣言は、王国の福音を信じるすべての人に告げられている宣言と同じものです。つまり、私たちは神に愛された子どもだということです(ヨハネの手紙Ⅰ 3:1、ヨハネの福音書 1:12)。
これらすべてが可能になったのは、神に愛された神の子イエスが、同時にイザヤが見た苦しみの僕でもあったからです。イエスはサタンの誘惑に打ち勝ち、力を手にする道ではなく、苦しみ死ぬ道を選ばれました。その死によって私たちの罪は赦され、悪から解き放たれ、新しい王国の王に従うために心が新しくされるのです。
ご自身の目で見てみましょう
聖霊が目を開いてくださり、ご自身この地に来てくださった神を見ることができますよう祈ります。そして、新しい王国への入口を開いてくださる、来られる王としてのイエスを見つめることができますように。

